教訓と道徳の監督

■本名 : Arsene Wenger(アーセン・ベンゲル)
生没年 : 1949年10月22日〜
出身国 : フランス(ストラスブール)

■監督時代の経歴
▽就任チーム
1983-84 : カーン(ユース)[FRA]
1984-87 : ナンシー・ロレーヌ[FRA]
1987-94 : ASモナコ[FRA]
1995-96 : 名古屋グランパスエイト[JPN] ※1シーズン半
1996-現在 : アーセナル[ENG]

▽タイトル
<モナコ>
88 : フランスリーグ優勝
85、91 : フランスカップ優勝
<名古屋グランパス>
96 : 天皇杯優勝
<アーセナル>
98、02 : プレミアリーグ優勝
98、02 : FAカップ優勝

■ベンゲルの経歴(〜モナコ)
アーセン・ベンゲルはフランスのストラスブールというドイツとの国境近くに位置する街の労働者階級の家庭で生まれた。 街の案内板や標識がフランス語とドイツ語の2言語表示というフランスの中でも特にドイツ文化の影響が大きい地方である。 彼は容姿を見ても分かるように外見も中身もフランス人というよりはむしろドイツ民族系であるようである。 そういった背景のためなのか彼の発するフランス語は訛りが強く、そのためフランス国内でメディアの対応をすることはかなり稀である。

ベンゲルは地元ストラスブールのクラブでプロの選手(MF)として現役生活を全うする。 彼は選手としての自分を「創造的で直感的、活発に動き回る選手であった」と言っているが、「しかしながら出来は悪かった」と著書の中で語っている。 ベンゲルが普通のプロ選手と違うところがあったとすれば、選手生活を送りながら同時にストラスブール大学に通っていたことだろう。 彼が専攻したのは「政治経済」、本人は「数学が得意だったし、今後の役に立つと思ったから」と言っている。 (その選択が正しかったことは後にイングランド証明されるのだが)

選手を引退後、ベンゲルは家族の反対を押しきりストラスブールのユースチームのコーチの職に就く。 その後ベンゲルがコーチとして名を知られるようになったのはD2のカーンというクラブのアシスタントコーチとユース監督を務めるようになったころからである。 ナンシー・ロレーヌの監督として抜擢されたときは就任したその年にチームを見事1部へと昇格させ、この時の業績がフランスリーグの名門ASモナコの監督就任のきっかけとなった。 ベンゲルが7年間も率いたASモナコでの成績は、リーグ優勝1回、カップ優勝2回、チャンピオンズカップBEST4など輝かしいものである。 (余談だが、ベンゲルがあの怪人ウェアを発掘したのもちょうどこの時であり、彼にバロンドール授賞式でトロフィーを手渡したのもまたベンゲルであった。)

ここまで無名選手からの監督職としては理想的とも言えるキャリアアップを遂げているベンゲルであったが、しかしそれが一変してしまったのはモナコがリーグで9位に低迷した年であった。 彼は、彼をそれまで支えてくれたフロントとマスコミに掌を返したような激しい批判を浴びることになる。 精神的にかなり追い詰められ、監督としての評価も下がり始めた。 欧州の厳しい洗礼を受けた彼は「次は私を信頼してくれる一番最初にオファーのあったクラブに行こう・・・」と堅く心に決めたと言われている。 そしてその最初のオファーを出したのが遥か東邦の国の名もないリーグに属する名古屋グランパスエイトだった。 欧州と隔絶された状況を望んでいた彼にとってはこの上もなく願ってもないオファーだったに違いない。

傷心しきっていたベンゲルはこの時の心情を 「日本では日本のサラリーマンのようにロボットのような生活が待っているものだと思っていた。だがそれも良いかもしれないと感じていた。」 と語っている。

こうして世界の名将が晴れてサッカー辺境の地、日本を訪れることになったのだ。

■ベンゲルの経歴(〜名古屋グランパス1年目)
ベンゲルが名古屋の監督に就任して間もないころから、彼は選手を指導するのに際して多くの違和感を感じていた。

それは、本来ならば彼が監督として行わなければいけなかったことの多くについて、おざなりにしていたことに気が付いたことだ。 つまり今までならば選手のレベルが高かったことで監督が口を挟まず選手任せにしていた部分が、そのようなやり方が日本では通用しないことを感じ取っていた。

そこで彼は今までの「自主性の強い欧州の選手を正しい方向に制御する」のではなく「自主性の低い日本の選手達を啓蒙し自信を植え付ける」必要があった。 これはベンゲルにとっても初めての経験で最初はひどく戸惑ったようだったが、練習方法の改善と選手への意識付け、 そして選手との信頼関係を結ぶために練習場以外でもコミニケーションをとるなど、幾つかの問題が解決する日が来る事を彼は辛抱強く待った。 このときベンゲルは「選手たちは信頼できる監督に答えることを望んでいるかのようだった。そのために私は(欧州では極稀なことであるが)選手とのピッチ外でのコミニケーションに時間を割くよう心掛けた。」と言っている。

彼らの試みが身を結び始めたのはJリーグの中断明けからだった。
そして改めて仕切り直したセカンドステージでは彼らはその真価を発揮してステージ2位の大躍進を遂げる。 幾つかの重要な試合でストイコビッチさえ居てくれれば1位になっていた可能すらあった。 そしてその勢いを保ったまま、彼らは天皇杯では他を圧倒するパフォーマンスで見事にクラブ初タイトルを手に入れる。 結果、ベンゲルはグランパスでも成功を収め、チームは1年という短期間で一気にトップチームの仲間入りを果たしたのだ。

だが初めての優勝で浮き足立つ選手とファンはまだ知らなかったようだ。
世界のサッカーの流れが彼らの想像以上の速度であることに。

■ベンゲルの経歴(〜名古屋グランパス2年目)
欧州からの隔絶を望みグランパスを選んだベンゲルが日本を訪れて1年ほど経った時、彼の当初の予想とは違う事態が起こっていることに当惑した。 それはある事実によって欧州のサッカー界がJリーグに対し何の敬意も払っていなかったことを知ったためだ。 彼は日本に来るに際して「例えJリーグであっても結果さえ残せば監督としてのキャリアには何の障害もない」と考えていた。 昨年まで下位に低迷してたグランパスを見事ステージ2位にまで押し上げ、加えて天皇杯を制したにも関わらず、 それとは全く無関係に欧州のシーズン終盤と重なるこの時期の彼へのオファーは前年それよりも確実に減っていた。 つまり彼の評価はナンシーとモナコでの実績のみに重点が置かれており、またそれらの実績では何年も”世捨て人”の評価をつなぎ止められるものではないこともまた現実だった。

ベンゲルはこのことにショックを受けると共に、激しい危機感を覚えたようだ。
「これ以上日本にいると、ヨーロッパに戻れなくなると感じた・・・」
彼はその著書の中でこう語っている。

一方でベンゲルとグランパスとの契約条項には「他チームのオファーが来た場合、シーズン途中でも契約を解除することが出来る」という条文があった。 おそらくはチームもベンゲルもそれを行使する事態になるとは思ってもいなかったであろうが。 そんな折、偶然にもオファーがあったチームというのが当時低迷していたイングランドの名門アーセナルからのものであった。 これだけのお膳立てがあれば、たとえそれがどんな名監督であろうと移籍するのがむしろ自然というものであろう。 賢明な彼はその年の優勝を狙うグランパスの1stを指揮しただけで日本に別れを告げたのである。

■ベンゲルの経歴(〜アーセナル)
アーセナルでの話をする前にイングランド・プレミアリーグの他のリーグとは全く違う特殊事情について触れなければならない。

プレミアリーグの監督が他のリーグと決定的に違うのは、監督自身がクラブの経営と運営にまで深く関わることが義務付けられているためだ。 つまり監督はそのクラブに就任した時点で実質的にクラブで最高の権限を得ることになり、 またこのことは監督がサッカーだけではなくクラブの経済的な面にも精通し、そのためにヨーロッパの経済界、上流階級との良好な関係を築いていかなければならないことを示している。

彼らには監督としての資質はもちろん、人間性、高い知識・知能、その他社交的な振る舞いには欠かせない幾つかの事柄(例えば流暢な英語など)についてすら精通している必要がある。 ここまで来ると、むしろサッカーの資質はさほど重要ではないのかもしれない。おおよそサッカーの監督とは離れ、全ての面においてバランス感覚と人間的資質が求められるのだ。 実際イングランドの監督が練習グラウンドでチームを指揮することはなく、それどころか見に来ることすらしない。 それはベンゲルもファーガソンも例外ではなく、日々のトレーニングはもっぱらコーチの仕事であり、監督はコーチの選んだ調子のいい選手を使うというのが通例なのである。

プレミア監督に必要なこれらの資質と比べて、ベンゲルは監督としても人間的にも何の問題もなく非常にバランスがよくまさに適任であるといえよう。 結果としてプレミアリーグを新しい職場として選んだのは賢明な判断であった。 もちろん彼が大学時代に政治経済を専攻していたことがアーセナルからのオファーを導く一つの要因であったことは疑いようがないであろう。

2001−02のシーズン終盤にアーセナルは宿敵マンチェスター・ユナイテッドを直接対決で下して優勝を決め、世界最古のカップ戦であるFAカップ優勝と合わせ2冠という98年に続く快挙を成し遂げている。

■”ベンゲル先生”と”教訓”
疑いようもないことではあるがベンゲルは名将であると同時にまた人間的にも信頼に値する人物である。 チームのバランスを保ち、選手とのバランスを保ち、その中で若手選手の育成をする。 サッカー監督が世界中にこれだけいるにも関わらず、その多くができないでいることをベンゲルは見事にやって見せている。 しかしながら、彼が唱える「サッカー律」がもたらす戦術的影響について語られることは少ない。 (具体的な戦術については後述)

結論から先に述べよう。
彼はおおよそ戦術について詳しくはない。
ご存知の通り彼はしっかりしたチームを作り、さらに立派な成績を残している。 だからと言ってその戦術が必ずしも優れているとは言えないのがサッカーの面白いところでもある。

ここではベンゲルの唱える「サッカーが必要とする要素」と、それが彼のサッカーに「どのような戦術的影響を及ぼしているのか」を検証する。
ベンゲルが著書の中で述べていることをまとめると以下のようになる。

◆サッカーをするということは人生にどう取り組むかということに行きつく。そしてチーム作りとは選手とチームにアイデンティティーを植え付ける作業とも言え、故に選手には自主性を持ったプレーが求められる。
◆選手は特徴を有している必要があり、またバランスを保つために欠点があっては行けないし平均して高い質の能力を持たねければならない。
◆監督とは常に向上するよう努力をし、それを選手にも示す必要がある。同時に監督とは多様な面を持ち、唯一の確固たる存在でなければならない。
◆サッカー捉え方は監督のパーソナリティーに依存し、それによりプレーの方針・原則も変わる。
◆戦術は周囲の全てクオリティーを考慮して考える必要がある。
この発言を聞いても分かるように、彼は特に変わったことは何一つ言っていない。むしろこれらは一般論と言ってしまってもいい。 例えばサッキであれば嬉々として語るであろう独自の戦術論などについて著書ではまったく触れられてはおらず、そのことからおそらく彼が戦術家ではないであろうことがわかる。

一般的に戦術家とは論理を立体的にだからこそ緻密に組み立てようとするが、ベンゲルは違う。 彼はまるでタイルを床に隙間なく敷き詰めるかのように、至極当たり前であるが最も重要であると思われる多くの事柄を、小さなセンテンスにまとめ平面的に並べてようとする。 つまり彼にとってサッカーとは理論や論理といった類のものではなく、事実(あるいは経験則)の羅列としての教訓や格言といった類のものであることを意味する。 実は彼の選手育成に定評があるのもこの部分の影響が大きい。
彼に言うことはどんなサッカーであっても通用する凡庸な哲学(あるいは教訓)を含んでいるのだ。

■ベンゲルの悪癖<1>(変わらないチームの印象)
サッカーの教育者として聖人のような印象のベンゲルも実は本人すら意識しない幾つかの悪癖が存在する。

ベンゲルが見出し世界最高のボランチとまで言われたビエイラが彼に噛み付き、移籍をほのめかす発言をしていたのは記憶に新しいところだ。 当時は単にビエイラが増長した結果であり、サッカー界ではどこにでもあるような騒動のようにも思えたが、 その背後にあるベンゲルのサッカーの根本的な問題が見えている。

ビエイラが当時主張していたのは自分の能力と世間の評価にギャップがあること、つまりは”クラブが結果を残せなかったこと”に起因している。 先のベンゲルの発言を聞いても分かるように、彼が言っている事は良くいえば一貫しているし分かりやすくもあるが、逆に悪く言ってしまえば同じ事を繰り返すだけで深く踏み込んだ意見がないとも言える。

これでは3年連続でリーグ2位に甘んじてきたという事実を抱えた選手達から不満の言葉が出て来ても何の不思議もないであろう。 普通は何らかの施すべきことがあるからこの順位で甘んじている、と考えるところをベンゲルはそのようには考えない。 正しいことを日々繰り返していればそれが報われる日が来ると考えるのである。その結果、唯一のライバルであるマンUが調子を落とした昨シーズンはあたか繰り上がりのように昨年とサッカー自体は何も変わらなかったアーセナルが2冠を制した。

■ベンゲルの悪癖<2>(偏った選手への視線)
ベンゲルの選手の選び方にもいささか問題がある。
確かに彼は長所を持ち、弱点がなく、それでいて平均以上の能力を持った選手を好むのだが、 このことはベンゲルが獲得する選手の多くが攻撃力と守備力とテクニックを備えた”MF”であることに象徴されている。 そうして獲得したボランチをCBやSBにコンバートするのももはや常套手段となっている。

これはベンゲルのサッカーが選手の見かけ上(数値上といってもいい)の高い総合能力と身体的能力を必要とし、その結果フランスやオランダなどのトレセンで培養されたようなどのポジションでもこなせる選手が好まれる。 この総じてノッペリとした印象の選手が繰り広げるサッカーは、本来持つ選手の能力を押しこめてしまうような印象がある。

そうして出来たチームは各選手の能力を100%±10%のパワーレンジでしか発揮させることしかできないようにすら感じさせるのだ。 これは彼の掲げている一見先鋭的なサッカーが実際は保守的なものであり、少しでも能力バランスの悪い異能者などが存在する余地がないことを示し、このことから選手達の能力を倍化させるような戦術、歴史に名を残すような強いチームをベンゲルが作り出すとは考えにくいのだ。

また若手育成の方法にも一癖ある。
例えば日本の稲本のような事例に注目すると、ベンゲルがウェアやビエイラなどの選手を発掘してきたのと同時にその影でフランス期待の若手選手を幾度となく潰してきた事実は意外に知られていない。 稲本がアーセナルのサテライトチームから帰ってきたときの判断力の異常な低下は顕著であり、これはイングランド独特のサッカーと合わせて選手の正しい感覚を狂わせるものである。 あと少しでも移籍が遅ければ彼もその二の舞いを踏むところであったかもしれない。 これもやはり選手の総合能力重視しすぎるあまり、異能者の入り込む余地を与えないサッカーがもたらした功罪であろう。

■必然であるベンゲルのサッカー
ベンゲルのサッカーはどのクラブを率いた場合でも常に一貫している。 実際、所属する選手のレベルこそ違えどアーセナルでもグランパスでも似たようなサッカーをしていた。 「4−4−2フラット、高いDFライン、自由度の高い攻撃」をその基本とし、 例えば当時のグランパスを知る者は「普通の選手がダイレクトパスによる華麗なサッカーをしたときに、サッカーにはマジックがあると思った。」と言っている。 やはりアーセナルも例外ではなくダイレクトパスを多用を駆使してスピーディーにゴール前まで詰めるサッカーをしている。

では何故ベンゲルのサッカーが4−4−2であるのか?
確かに4−4−2のシステムはバランスをとるのに最も優れたシステムの1つである。 選手配置も幾何学的にわかりやすく味方との位置関係を把握しやすいし、自由度を演出しやすいという面もある。 相手との関係上どうしても1対1が多くなり、結果良くも悪くも選手の能力と相手との能力差がダイレクトに反映されてしまうシステムだ。

結局のところベンゲルのサッカーが保守的だといのはこのバランスを重視しすぎるところにある。 このシステムの唯一にして絶対の弱点である中盤守備ゾーンのカバーもベンゲルが集めてきた身体能力の高い選手達には十分カバーできる範囲内にすらある。 つまり彼がしようとするサッカーは、一部の選手達に対して能力だのみの、加えて過剰な労働を強いることで成り立っている。そしてこのシステムの最大の問題がそのことに関してベンゲルがほとんど無自覚であることである。

そこにやはりやりきれないものを感じるのだ。

これらのことは戦術的な側面から見た場合のベンゲルサッカーへの批判なのであるが、しかしサッカーとは一方で戦術だけが大事なのではなく、 選手の能力を上手く引き出し、全体のハーモニーを重視し、結果チーム内に良い関係を作り出すというやり方も確かに存在するし、 またそのサッカーに関してベンゲルが間違いなく世界有数の監督であることは疑いようがないことである。

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■参考文献
・アーセンベンゲル著 「勝者のエスプリ」 他