- 世界のサッカーシステムの変遷 〜世界のサッカーシステムを時系列で体系化〜
- 第1章 : イングランドのサッカー草創期
- 第2章 : システムの変遷
- 第3章 : システムの隆盛とその方向性についての見解
参考文献
・大住良之 text:20世紀システムの変遷
・河治良幸 text:サッカーは半世紀でいかに進化したか?
・アルフレッド・ヴァール text:サッカーの歴史(監修:大住良之)
- 第1章 : イングランドのサッカー草創期
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近代サッカー草創期と言えるものは19世紀初頭のイングランドから始まる。
当時、イングランドのパブリック・スクール(裕福な家柄の子弟が通う私立中学)では中世以来ヨーロッパに脈々と伝わるボールゲームの伝統をなんとか保ち続けていた。
1830年までのフットボールでは各学校で独自のルールがあり、全員がボールめがけてひたすら突進し、各人がそれぞれ力まかせにプレーするだけのもので、
また当時はブルジョア階級出身の生徒達よりも教師の方が身分が低かったこともあり、上級生の下級生へのいじめの手段と化していた側面もあったほどだ。
そんな中、ラグビー校のトマス・アーノルド校長によるパブリック・スクールの改革の一環として、学校教育と共にフットボールもまた生まれ変わった。
それまでのただ乱暴なだけのゲームではなく、はっきりとしたルールにもとづき人格形成に役立つような「スポーツ」としてのフットボールを目指すようになったのだ。
1845年ごろからは、それまで各校で分かれていた様々なフットボールのルールの中からどれか一つを選んでプレーするようになっていた。
イートン校やハロー校などの古くからの名門校は「手を使うこと・相手のすねを蹴ること」を禁止する今のフットボールに通ずるルールを採用し、
そしてこのルールに従ってプレーされるフットボールは、そのプレースタイルから特に「ドリブリング・ゲーム」と呼ばれるようになった。
1863年には名門校の卒業生を中心とし、いくつかのクラブの代表者が集まりFA(フットボール協会)が設立され、
1848年につくられたケンブリッジ・ルールを元にした新ルールを採用することが決まったのだった。
(一方でラグビー校の関係者は手を使わないルールに反発し、1871年にラグビーフットボール連盟を結成。以後、別々の競技として発展していくことになる)
それまでは試合によって人数もまちまちで、前半はサッカー、後半はラグビーというのが一般的だったのだが、
1871年にFAカップが開催されると、これをきっかけにようやく各地のサッカークラブが統一ルールで試合を行うようになっていった。
GKが手を使えるようになったのもちょうどこのころである。
イングランド全域にサッカーが普及し始めたのは1860年代末のことだ。
中産階級の人々が土曜の午後に余暇を持てるようになったのがその原因の一つであると言われ、そのときにたくさんのサッカークラブが作られている。
意外にもサッカークラブの多くは教会を基盤として誕生し、1880年には全体の25%がそういったクラブで占められていた。
アストン・ビラ、ブラックバーン、ボルトン・ワンダラーズもそういった中で誕生したクラブの一つである。
教会に次いでクラブの基盤となったのが、当時は社交場としての機能も備えていたパブだった。
1870年代末にはすでに大企業を母体としたウェスト・ハムなどのクラブが約20団体ほどまでに増加したが、
実際には鉄道の従業員が集まったマンチェスター・ユナイテッドなどの労働者によってつくられたクラブのほうが多かったようである。
1882年にはFAへの加盟クラブは1000にまで達していた。
当時のサッカーはパブリック・スクールや教会を基盤としたサッカーチームの影響から道徳的な意味を持ったルールの採用からもわかるように、
「勝利に固執せず、サッカーを楽しみ、フェアプレーを心がける」といったアマチュア精神にのっとってプレーされていた。
また、当時のサッカーは職業として成り立つものではなく、ましてや自分達より身分の低い大衆への見世物ではなかった。
事実、それまでのFAカップ決勝戦は全てパブリック・スクールの卒業生でしめられていたのだが、
1883年の決勝でブラックバーンが名門校のイーストン校を打ち破り優勝を飾ると、ついにサッカーのエリート支配も終わりを告げることになる。
このころになると既に補償金や移籍金という形での金銭の受け渡しが行われ、アマチュアイズムは徐々に有名無実化していった。
アーセナルのように株式会社の形でプロ化するクラブもあり、1885年には正式にサッカーのプロ化が認められた。
そして1888年にアメリカのベースボールリーグを参考にして、12のプロのクラブによる「フットボール・リーグ」を設立しチャンピオンシップを開催するまでになったのである。
産業革命の影響でイングランドから労働者が欧州中に働きに出るようになり、1914年を境にヨーロッパでもサッカーは急速に広まっていった。
しかしその発展には鉄道が大きな役割を果たしたことが当時の資料からもよくわかる。1920年代末ごろを見てみるとサッカーの盛んな地域は各国の鉄道網とぴったりと重なっている。
当時は駅があるところにグラウンドやチームがあり、対外試合や観戦も簡単でない駅から遠い場所にある町ではバスが通行するようになるまでサッカーはなかなか広まらなかったのだ。
初期のヨーロッパ大陸の試合では、手こそ使わないもののかなりラグビーに似たサッカーが行われており、実際に試合に参加する選手もその多くがラグビー選手だった。
パスを中心とするゲームはまだ知られておらず、ゴールキーパーを除く全員がボールに突進するとゴールを目指しドリブルした。
ゴール付近では守備側の選手がボールを大きくクリアするまで激しい乱闘がくりひろげられ、
選手達は手をつかってはいけないというルールを守ろうと必死になり、腕を体にぴったりとつけている様子を審判にアピールしていた。
1900年ごろになってようやく各選手が自分のポジションを守るようにはなったが、選手達は依然としてラグビーのように激しく体をぶつけあっていたために、
例えば1899年に行われたオーストリアのファースト・ヴィエナ対ヴェエナ・クリケット・クラブの試合などでは「鎖骨を折る選手が続出し、試合が中断される」という事態も起こった。
そのような状況だったためにイギリスからやってきたチームのプレーを初めて見たとき、ヨーロッパの人々は大きな衝撃を受けた。
イギリスの選手たちは、脚の内側や外側を使ってサイドに短いパスを出したり、頭でボールの方向を正確に変えて巧みに敵をかわしたからである。
それを見たヨーロッパ大陸選手達は、彼らのテクニックを何とか取り入れようと模索し、シュートやドリブル、トラップといったテクニックを学ぼうとする動きが盛んになっていった。
選手の動きを図や写真入で細かく説明した解説書が次々と出版され、プレーヤー達の人気を集めた。
また監督もイギリス、ハンガリーといった強豪国主出身者が好まれるようになったのも当然と言えるだろう。
統一ルールを取り入れることは、イギリスのチームと対戦することを望んでいたヨーロッパの人々にとって必要不可欠だったために、徐々に統一ルールは浸透していった。
だが初期のころは審判がルールをほとんど知らず的確な判断を下すことが出来なかったために、審判が試合中に各チームのキャプテンと議論をはじめることもよくあった。
そして1904年に、オランダなどヨーロッパ大陸の人々が中心となりFIFA(国際サッカー連盟)が設立された。
対してイギリスは(当時から)本家意識が強く、世界的なサッカー組織をつくることにあまり関心を示さなかった。
スイスのチューリッヒに本部を置き、1984年には150カ国の連盟と5200万人の選手を傘下に入れるまでに成長していった。
最初はオリンピック競技として実現されたが、記念すべき第1回ワールドカップが1930年にウルグアイで開催されたことでFIFAの権威はゆるぎないものになっていくのである。
当時イングランドはこういった国際大会に参加せず、優勝国と親善試合をすることでその実力を示していたものの、
その後の1950年までワールドカップに出場することはなく、ゆえに優勝は1966年にイングランドで行われた第8回大会だけであった。
◆歴代ワールドカップの結果◆
1930第1回ウルグアイ大会_優勝ウルグアイ、準優勝アルゼンチン
平均得点3.89
1934第2回イタリア大会_優勝イタリア、準優勝チェコスロバキア
平均得点4.12
1938第3回フランス大会_優勝イタリア、準優勝ハンガリー
平均得点4.67
いろいろあって1950第4回ブラジル大会_優勝ウルグアイ
平均得点4.00
1954第5回スイス大会_優勝西ドイツ、準優勝ハンガリー
平均得点5.38
1958第6回スウェーデン大会_優勝ブラジル、準優勝スウェーデン
平均得点3.60
1962第7回チリ大会_優勝ブラジル、準優勝チェコスロバキア
平均得点2.78
1966第8回イングランド大会_優勝イングランド、準優勝西ドイツ
平均得点2.78
1970第9回メキシコ大会_優勝ブラジル、準優勝イタリア
平均得点2.97
1974第10回西ドイツ大会_優勝西ドイツ、準優勝オランダ
平均得点2.55
1978第11回アルゼンチン大会_優勝アルゼンチン、準優勝オランダ
平均得点2.68
1982第12回スペイン大会_優勝イタリア、準優勝西ドイツ
平均得点2.81
1986第13回メキシコ大会_優勝アルゼンチン、準優勝西ドイツ
平均得点2.54
1990第14回イタリア大会_優勝西ドイツ、準優勝アルゼンチン
平均得点2.21
1994第15回アメリカ大会_優勝ブラジル、準優勝イタリア
平均得点2.27
1998第16回フランス大会_優勝フランス、準優勝ブラジル
平均得点2.67
2002第17回日韓大会_優勝ブラジル、準優勝ドイツ
- 第2章 : システムの変遷
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FAカップがはじまったころからサッカーは一定のシステムでプレーされるようになった。
初期のフォーメーションは2-8<図(1)>で、ラグビーのフォーメーションが色濃く反映されている。
しかし1866年のルール改正はサッカーという競技が大きく変貌していくきっかけとなった。
このときに導入されたルールが「3人制オフサイド」で、「ボールより前に出ていい」というこのルールはその後のサッカーの本質を大きく変えることとなる。
相手チームの選手がゴール側に3人でもいればオフサイドにならないというのは2-8に対応したルールだと思われ、この影響もあり1874年以降は3-7<図(2)>のシステムが一般的となっていった。
1870年代初めにはスコットランドで2−2−6<図(3)>のシステムが考え出され、よりパスを活用できるようになったために、ドリブリングゲームからパスゲームへとサッカーそのものが変化していく。
1870年代後半にイングランドではより洗練された2−3−5<図(4)>がケンブリッジチームで使われ、クラシック・システム(ピラミッド・システム)と言われた。
特に中盤のセンターハーフはロービング・センターハーフと呼ばれ広く動きまわれる花形ポジションだった。
以降半世紀以上にわたりこのシステムが使われることになるのである。
ビクトリア女王の大英帝国のもと、もはやサッカーのシステムは完成を見たように思われたが、1910年代に入るとオフサイドトラップが大流行し、ゴール数が極端に減少してしまう。
つまり相手がFWにパスしようとした瞬間にバックの2人のうち1人だけ前進すれば簡単にオフサイドが取れた上に、
仮にオフサイドトラップが失敗しても余ったフルバック1人がゴール前に控えているため得点される危険度も低かったためである。
そんな中、ファン・メディアからの要望でようやく1925年に現在の「2人制オフサイドルール」が採用され、その後数年間は猛烈な得点ラッシュが記録されるのであった。
そんな攻撃優性の状況に歯止めをかけたのが「WMシステム」<図(5)>を考案したアーセナルの名将ハーバート・チャップマンである。
クラシック・システムに取って代わったWMシステムは、1950年代後半までのおよそ30年間このシステムの全盛期は続いた。
WMシステムが時代の終わりを告げるころには、システムの変化に伴い中盤の構成が重要になりそれまで目立たない地位に甘んじてきた中盤の選手の評価が急に高くなっていった。
イギリスで発展してきたサッカーのシステムは、WMシステム以降それを下地とした新システムがヨーロッパや南米で次々と作り出され独自の発展を見せるようになる。
例えばスイス・ボルトのカール・ラッパンは「ヴェロウ」<図(6)>と呼ばれるWMシステムにディープ・センターバックを置いた超守備的な新システムを考案した。
また1934年、イタリアがワールドカップを制した際には2-3-5から独自のMM型の布陣「メトド」<図(7)>を生み出した。
1952年のハンガリーの代表チームは、既に後のブラジルにつながる4-2-4に近いシステムでイングランドとの試合にのぞみ2度にわたって見事な勝利を収めていたが、
1954年スイス大会でもWMシステムをベースにしながらFWをM型にした3-2-3-2<図(8)>のラインを作りあげ、その圧倒的なまでの攻撃力から当時のハンガリー代表は「マジックマジャール」と言われた。
2-3-5を基礎としてWMへと移行していったのがヨーロッパ大陸の流れだったが、
1958年のワールドカップでブラジルが見せた4-2-4<図(9)>のシステムは専門家達の目を引いた。
この4-2-4はWMシステムとは違い2-3-5を発展させたシステムで、WMの攻撃と守備の人数がそろうことからくる攻撃の即興性の無さを解消するものだった。
その考えの元となったのが、1950年代のゼゼ・モレイラの「ゾーンディフェンス」で、2人のフルバックの外側にハーフバックを配置した「4バック」を用いてフルミネンセでの成功を収める。
しかし一般的には4-2-4の発明者はパラグアイ人のフレイタス・ソリチと言われている。
この4-2-4システムの登場から、その後のサッカーでは中盤が明確に意識されるようになったのである。
4-2-4の登場で世界のサッカーは新しい時代に入る。
4年後の1962年チリ大会では出場チームの大半がこのシステムをとるようになっていた。
しかしかつてのブラジルの4-2-4では左ウィングのザガロが半ば中盤に引くような形でプレーをしていたので、新システムとなる4-3-3<図(10)>への移行は余り時間はかからなかった。
4-2-4と同様に、その後の70年代は4-3-3が世界の主流になっていった。
この時代、イタリアでは「カテナチオ」<図(11)>といわれる4バックの背後に5人目のDFを配置し、FWの2人でのカウンター攻撃が流行した。
特にDFの背後に余る選手はリベロと呼ばれ、現在でもイタリア代表はその戦術的流れを組んでいると言っていいだろう。
70年代以降、それまで決して強豪ではなかったオランダが大きな飛躍を果たしている。
1974年のドイツ大会でオランダは名将ミケルス監督のもとで4-3-3を基調とした「トータルフットボール」<図(12)>という、それまでからすればかなり奇異なシステムを採用する。
攻撃面の特徴は、絶え間ないポジションチェンジと流れるようなパス回し、何より左ウィングのクライフの指示を出しながら自らもフィールド全体を駆け回るスタイルが新しかった。
また守備面では最終ラインを高く保ち、同時に高い位置から複数の選手でボールを奪うことでさらに攻撃を有利に進める工夫も見られた。
選手全員に驚異的な運動量と安定して高いレベルでのフィジカルコンディション、加えて高度な技術を備えている必要があるなど非常に難易度が高く、
そのポジショニングの高さから縦への速攻に弱みを見せることなどやや攻撃に偏重するシステムは戦術の試行面でいくつかの問題もはらんでいた。
だがポジションチェンジへの試みと高い位置からの守備、押し上げるライン、とその後の現代サッカーにつながるエッセンスを多分に含んだ戦術であったことは事実である。
同じ年の1974年ドイツ大会で西ドイツも同様に4-3-3を使ってオランダを倒して優勝している。
しかし西ドイツのシステムはオランダのそれとは全く異質のシステムで、
3人のストッパーの後ろで攻守に渡りゲームをコントロールする攻撃的なリベロシステム<図(13)>を使いベッケンバウアーという選手を最大限に生かすように配慮されていた。
オランダのそれがクライフを前提としたシステムだったことに対し、リベロもまたベッケンバウアーという選手なしには考えられないシステムである。
1966年イングランド大会ではイングランドのアルフ・ラムゼー監督が当時4-4-2を採用してファンやマスコミから守備的と非難された。
実際1970年代までは弱小クラブが強豪と当たる際には4-4-2にするのが常だったのである。
ところが82年ワールドカップ・スペイン大会で黄金のカルテットを要するブラジルとプラティに率いるフランスが採用した4-4-2<図(14)>はともに面白いようにパスをつなげ得点力が向上していた。
両チームとも優勝にはつながらなかったものの、このとき以来4-4-2はもう守備的ではないと言われるようになったのである。
4-4-2がシステムとして定着するとそれに対抗するように新たなシステムが生まれた。
86年メキシコ大会ではデンマーク・ダニッシュダイナマイツなどヨーロッパの大半のチームと優勝したアルゼンチンが3-5-2<図(15)>を採用していたのだ。
「相手の2トップに対して4人を置くのは無駄なので2人にマークして一人をリベロ(正確にはスイーパー)としてあまらせよう」という意図から生まれた布陣で、サイドのスペースはWBの縦の動きでケアするようになっていた。
また西ドイツは1990年イタリア大会で3-5-2を基調としたリベロシステム<図(16)>を用い組織的な守備と速攻を生かしてワールドカップを優勝している。
1980年代後半のサッキ監督率いるACミランは「トータルフットボール」の守備の要素を抽出したようなチームである。
4-3-3からFWを下げ、中盤での組織的で激しいプレッシングを基調とした4-4-2<図(17)>を使いフラットで高いDFラインを保った。
高いラインは後ろに広大なスペースを生むことになりラインコントロールのミスが致命傷になり得るのだが、ミランの練習ではロープを使い選手同士を縛り互いに付かず離れず常に連動できるような徹底的な訓練によってそれを解消していった。
このとき既に現代サッカーの「ゾーン・プレッシング」の素地が出来ていた。
90年代初めには3-5-2からまた4-4-2に戻すチームが多かったが、新しい3バックを見せたのがアヤックス・バルセロナ・オランダ代表の3-4-3<図(18)>だった。
80年代の3バックではDFはストッパーとリベロで構成され、マイボールでも相手FWに張りつくのが常で、システム自体も役割分担が中心的な思想になっていたのだが、
新たな3バックではバック3人の役割が流動的になり、マイボールになると3人が30m間隔で開きWBに代わるキープのポイントとなる。
このことで両サイドのWBがどんどん前に出て行くことが出来るようになり、また互いの位置関係に多くの注意が払われチームとして機能するように配慮されると、各選手が多くの役割(タスク)を受け持つ流動的な形へと進んでいった。
しかし、実際には3-4-3のようなシステムはアヤックスでもそうだったように、国内リーグでは常に攻めっぱなしになるクラブで使うことを主眼にしたシステムで、
FWをサイドに張らせ相手の守備のラインを広げておいてから、人の密集する中央を崩して得点するような戦術を取らざる終えなかったのである。
こうして攻撃的要素をもった流動的な3バックという考え方が登場した。
1996年ユベントスの監督リッピはサッキと同様の4バックで欧州制覇をしたが、より高い効率と機能美を追求するために3-5-2をベースとしたゾーンプレス<図(19)>を完成させた。
基本的な考え方はサッキと同様で、3バックを押し上げ、ゾーンを狭め、選手の配置が常に三角形を形成した状態からプレッシングをしかけ、ボール奪取とともに広域のスペースに攻撃を展開したのである。
中盤の人数を増加することで中盤での守備の負担が減り、DFの人数を削ることで逆にDFラインのコントロールが容易になった。
しかし両サイドの裏はゾーンが狭く保たれていれば大きな問題はないが、一度運動量が落ち全体が間延びするとそこを突かれる危険性があった。
ディフェンスラインの前のスペースも同様で、いかにゾーンを狭く保てるかがこの戦術の鍵となった。特に消耗の激しい守備的MFのために交代枠が使われることが多かったのだ。
リッピによって究極的に高められたゾーンプレスもやはり運動量などの試行面での課題が多く、現在では時間帯によっては全体的に引いて守るなど臨機応変に用いられているにすぎない。
1998年フランスワールドカップで地元フランスチームが4-4-2を基礎としトリプルボランチを用いた4-3-1-2<図(20)>で優勝を飾った。
通常のダイヤモンドと異なり両サイドがボランチとしての色が濃く、引いた位置からの圧倒的なまでの守備力とそこからのカウンターを誇ったチームであったが、
それができたのもジダンという世界最高のキープ力とテクニックを持った司令塔がいたからである。
一般的にはこれだけ後方に人数が集中すれば攻撃への切り替えが上手くいかないのだが、ジダンを経由することで攻撃時の両サイドの上がりを引き出すことに成功した。
しかし基本的にはカウンター向きの戦術であるために得点力の面で若干の課題も残していたのは事実である。
それでも多くの得点をあげることができたのは個々の選手の高い能力と高い戦術理解度でシステムを使いこなしていたからに他ならない。
現在、最も一般的なシステムはフラットラインを用いた4-4-2<図(21)>であろう。
その頂点に君臨するのがファーガソン監督率いるマンチェスターユナイテッドとベンゲル監督率いるアーセナルである。
両サイドの4人を攻撃の起点としながらも、中盤の選手が機を見て自由に攻撃にも守備にも参加する形は現在のプレミアリーグで特有である。
しかし反面サイドで起点が作れないとボールの落ち着きどころを個人のキープ力で補うことになり、意図せず早い試合展開を誘発することが多いのが欠点である。
また中盤の自由度の高さが反面で得点力の不安定さを招く場合もあり、非常にバランスをとるのが難しいシステムでもある。
DFラインは高めであるが厳密にはフラットではなく、高い個々の能力を前提に局面によっては引いて守る場面もよく見られ、
中盤のプレスについても局面で使い分ける器用さが必要になってくる。
「システムが抱える高い自由度」を選手が生かせるかどうかが、戦術の完成度に大きく影響を与えているのである。
2000年フランスがユーロ2000で優勝したときに見せたのが4-2-3-1<図(22)>という4バックの最新型であった。
98年が守備的であったのに対し、この大会では守備力を落とさず個々の高い能力を前提に素晴らしいサイド攻撃を見せた。
FWがたった1人ではあるが、それによって生じる前線のスペースを生かした中盤からの飛び出しとサイド攻撃を有機的に機能させる。
この年のフランスチームはパスを面白いようにつなげ相手の守備ラインを完全に崩すシーンも目立ったが、
しかしこの美しいパスサッカーはあまりにもつなげる意識が高すぎるためにフィニッシュのポイントが時にわかりづらいという側面もあり、
そのことが2002年大会でリーグ得点王3人を要しながらもここ一番での決定力不足という戦術的課題を浮き彫りにしてしまった。
ほぼ同様のシステムをデルボスケ監督率いるレアルマドリードも採用している。
レアルで特徴的なのがフィーゴのドリブルキープと高精度のパスを中心とした右サイド偏重の攻撃である。
MFの3人はポジションチェンジを繰り返してはいるが、ラウルが積極的にゴール前に飛び出し、空いたスペースをロベルトカルロスの驚異的な運動量で補う形でうまく機能させている。
2001年、W-cup南米予選でアルゼンチンが見せた圧倒的なパフォーマンスに世界中が驚いた。
3-3-1-3<図(23)>で3ボランチがWBのように動き、特に右WGのオルテガが引き気味でアクセントをつけた攻撃は破壊力抜群であった。
3トップで起こる前線のスペースの減少を上手く解消し新システムへの可能性を見せたが、2002年の本大会では結果を残せずその真価を発揮することなく帰国の途につくいている。
その後、選手からの強い要望でビエルサ監督の留任が決まったのは監督の高い能力と信頼感を裏付けるエピソードであった。
日本での戦術について語るのが難しいのが、ひとえに世界レベルでの検証がなされていないからだ。
2000年アジアカップで見せた日本のパフォーマンスも特徴的なものだったが、アジアサッカーのレベルを考慮しても戦術としては面白い試みであった。
右サイドをボランチと連動させて下げ、左サイドを高い位置に保ち2.5列目で名波とのポジションチェンジを繰り返した3-5-2<図etc1>は
フランス代表との試合でその守備のもろさを露呈してしまいこのときの魅力的な攻撃サッカーはその後あまり見られなくなった。
また2001年シーズン、ジュビロ磐田の3-2-1-2-2の属にいう「N-BOX」<図etc2>についても触れておこう。
このシステムが革新的だったのがこれまでの3-5-2では伝統的にWBがサイドとして縦の運動量を一手に引き受けていたのに対し、両サイドに大きく開いたダブルボランチがその対応をしたところにある。
加えてセンターの名波(N)が中盤でプレスに積極的に参加、またDFがラインをそれほど意識せずに中盤と完全に連動する形でプレッシングを仕掛けた。
攻撃時には守備の負担を軽減された前線の4人が鋭く両サイドからカウンター攻撃を仕掛け、遅攻時でもその高い能力と組織力から見事に守備を崩して見せた。
残念ながら世界クラブ選手権の出場権が無効となり世界トップレベルのクラブに戦術が通用するか試す機会を失ってしまった。
また名波というキープレーヤーの有無がチーム力の著しい低下を招くのに加え、全員にシーズンを通して高いフィジカルコンディションを求めるために2002年度での採用は見送られている。
しかし通常4人で行う中盤底の守備を高い戦術理解度と他チームを圧倒する個人能力でカバーしたところに新しい3バックの可能性を見ることができた。
- 第3章 : システムの隆盛とその方向性についての見解
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■これまでのシステム変遷の方向性
サッカーのシステムを語るときにいつも疑問に感じてきたのは、現在隆盛を極めるシステムの中でその成り立ちの現場はどのようなことが行われていたのだろうかということだ。
現在では当たり前になったシステムも当時としては画期的であったり奇異であったりしたはずである。
しかし今となってはあまりにもそれが当たり前になってしまったためにその感覚を知ることができない。
それを解決する唯一の手段として歴史的経緯を踏まえてサッカーをさかのぼって見ていくという作業がどうしても求められた。
1章ではサッカーの成り立ちを通じて当時のサッカーがどのような状況で行われていたかを知り、その皮膚感覚としてのシステム・戦術にアプローチした。
つまり選手達のいる社会環境や技術自体がどのようなものであったかを知っておくことで、戦術の程度を推し量ることが出来ると考えたからだ。
2章では1章で述べられた内容にはできるだけ触れずに、サッカーの初期のシステムや戦術から順に見ていくことにした。
一般的によく言われるのが「後ろの人数が増えたために守備的にシフトした」というものだが、しかしことはそう単純ではない。
なぜならオフサイドルール改正以降、特にWM時代以降の戦術の推移は選手の運動量の増加によって試合を通して走り回ることが出来るようになり、
そのことで試合全般を通じて中盤から前線に飛び出す動きが増加したためにそれまでのようにFWの人数を増やさずとも得点力を落とさずに済むようになったと仮定することができる。
中盤以下の人数が増え、またチームのプレッシング理論登場し、またそれが行えるほど選手の運動能力が向上すると、チームの守備力は格段に上がった。
そこで思い出されるのがゾーンディフェンスとプレッシングである。
ゾーンディフェンスはDFにも人数をかけることではじめて登場した有用な守備戦術であり、またプレッシングも中盤の人数の増加ではじめて可能な戦術であった。
サッカーの起源の段階で既に伸びしろは、攻撃よりもむしろ守備の方にあったと考えるのが妥当であるように思う。
■現状のシステムの分析と今後の方向性
かつてWMがスタンダードだったように平均的な選手が施行するのに適した戦術というのが往々にしてスタンダードと言える。
現在スタンダードと言えるのが4-4-2であるが、その対抗としては3-5-2があげられる。現在世界のクラブのほとんどがこのどちらかを採用している。
何故3バックがスタンダードなり得ないかというと、戦術を機能させるのに規律と組織の完成度が求められるからである。
4バックでは良くも悪くも選手の能力が戦術の上に乗りやすく急造チームでもそれなりに機能するが、逆にそこからレベルを上げることがなかなか難しい。
もしサッカーに究極の戦術があるとすれば、それを語る上で欠かせないのが「流動性」「プレッシング」「高いラインのコントロール」である。
これらのエッセンスが全て詰まっていた象徴的な存在がトータルフットボールと言われるものであったが、エッセンスという言葉に留まっているのは
今これをそのまま行うと当時のチームの弱点が現代サッカーに耐えられずに先に顔を出してしまい通用しないことが判っているからに他ならない。
かつてサッキの戦術では3要素のうち守備的な意味での「プレッシング」と「高いライン」を限定的に現代サッカーに復活させた。
またレアルの監督デルボスケの4-2-3-1は「流動性」という攻撃的な側面での現代サッカーへの回答は既に提示している。
今後の新しい戦術はこの2方向の戦術をどういう形で、もしくはバランスで融合させていけるかが課題であろう。
ここまで書いておきながら、しかしながらこの3要素が現代でも有用かつ絶対的なものであるかは実際は疑わしい。
レアルマドリードは「激しい中盤のプレッシング」も「高いライン」も行ってはいないが現在欧州で抜群の成績を誇っている。
特に中盤のプレッシングは、近年の選手の技術力と体力レベルの向上にともないかつてのような方法論では簡単に突破される可能性があるのも事実だ。
「高いライン」はその中盤との連動性からリスクが大きく、また攻撃面でのチームへの貢献もレアルのように流動性ある攻撃をするチームにはあまり効果がないことも判ってきた。
つまりかつての3要素のうちこれが有用と絶対的に言えるのは攻撃面での流動性くらいであとは新しい限定的な意味での文脈が必要になる。
例えばプレッシングで「ボールを奪う」のではなく「プレーの方向を限定する」ことで「パスカットやドリブルカットを狙う」とか、
高いラインについてはもっと状況を限定した場面で使い必要以上に上げないなどの当時のままでなく新しい解釈が必要なのだ。
(seri)
- 第1章 : イングランドサッカー草創期
- 第2章 : システムの変遷
- 第3章 : システムの隆盛とその方向性についての見解