中田“監督”の可能性と限界
現在、ジーコジャパンの是非については各メディアで様々な論調が見られるが、一般的な意見としては
ガゼッタ氏の『ジーコジャパン中間総括』や ミケロット氏の『戦略が無かったジーコジャパンの冒険』などでジーコ監督の現状がわかりやすくまとめている。

ミケロット氏は、大会に対する準備、グループリーグを戦う戦略、及び選手起用などジーコの監督としての戦略面の能力の低さと経験の無さを指摘し、 ガゼッタ氏はそれに加え、ジーコの監督就任からこれまでの流れを振りかえり、ジーコ代表監督の言行不一致や結果オーライの選手起用、時代遅れの戦術と硬直的な采配について、それぞれ冷静に分析している。

結論的には両者とも「ジーコは監督としての能力が無い」ということを言っており、これについてはあまり異論はない。
だがガゼッタ氏はこの状況を唯一肯定する材料として「中田現場監督」の存在を挙げている。
高い技術と戦術眼を備えた日本代表の不動の中心選手であり、同時に最も使いづらい選手でもある中田英寿。
ジーコの放任主義とも言えるスタイルは、少なくとも戦術的制約を嫌う中田にとってみればプレーしやすい状況を作り出しているとも言える。 そうでなくては彼のプレーが極端に悪くなるというわけでもないのだが。

現在チームの約束事は、中田個人の戦術眼を利用た現場レベルでのボトムアップによって作り上げる、という形が出来つつある。
結果、監督という軸のない日本代表が中田を中心にすることで良い方向に進みつつあるのではないかと説いている。
戦術的、ないしは戦略的な意味においてチームに大きな影響を与えられていないジーコ代表監督なのだが、
だからと言って、一選手である中田が監督に成り代わりチーム戦術を構築ことは、はたして可能なのだろうか?

以下、ボトムアップ型のチーム作りの可能性について考察していくことにしよう。

■トータルフットボールの「秩序と混沌」
「ピッチ上の監督」と聞いてまず思い浮かぶのは、トータルフットボールの創始者であり、具現者であるオランダの英雄ヨハン・クライフだ。 ご存知の通り、クライフは激しくポジションをチェンジするトータルフットボールのサッカーをにおけるピッチ上の指揮官であり、 常に指示を出したりその動きによって自在にスペースメイキングをしていたことが知られている。

トータルフットボールの完成にはミケルスという偉大な監督の存在が不可欠だったが、それを実現するために重要だったのはあくまで選手の質である。 選手1人1人に高い総合能力が求められ、クライフのようなピッチ上の指揮官が2〜3人も必要になってくる。 トータルフットボールはその成り立ちと施行の両面において、いわば究極のボトムアップ型の戦術と言える。

計らずも選手主導型のチーム作りを行っている日本だが、 今後選手同士の修正で問題を次々と解決し、チーム全体の要求がエスカレートしていくならば、 トータルフットボールのそれに似たスタイルを築く可能性もないわけではない。

戦術的には似ている部分もある。
それは「ポゼッション重視」と「ポジションチェンジの多用」だ。
ジーコの理想とするサッカーにおいては、今まで彼が何度となく口にしている「最終ラインを必ず1人余らせる」「ミスをしないように注意する」などに象徴されるような、とにかく何事にもセーフティーファーストであることが要求される。 それはパス回しにも表れ、むやみにボールを取られるぐらいなら、慌ててカウンターを繰り出さなずバックラインでボールを回しゆっくり組み立てていくことを優先させる。 その影響からトルシエ政権後期に見られた中盤でボールを奪った直後に相手に取り返されるといったことが減り、守備が落ちつきを取り戻した面もある。 このスタイルでは相手が引き気味に構えることが予想されるため、そこから得点を奪うにはトータルフットボール同様、こちらから意識的にポジションバランスを崩して「歪み」を作リ出す必要が出てくる。

「今までの日本チームは良くも悪くもまとまってしまっていた。パラグアイ戦でもバランスが非常によくても、点を取れる匂いがしなかった。そういう点を、いかに打破するかが今大会のテーマになる。自分で考え、それを行動に映すのが苦手なのが、僕たちであるわけで、今後はこれをいつやるかでしょう。」
――中田英寿 (MASUJIMA STADUMより)

「バランスが良いのに点が取れない。」という中田のコメントは計らずもサッカーの真理を感覚的に述べている。
詰まるところ、サッカーにおいて守備とは「いかに自分たちのバランスを保ち、組織戦術の効いた状態での数的優位を作り出すか?」 そして攻撃とは「同様にそのバランスを数的有利を作り出すことで崩していくか」ということに他ならない。 守備を第一とする組織守備のフットボールではスペースを空けることを絶対的に嫌い、ポジションチェンジも(特にイタリアでは)本質的には歓迎されていない。

しかし前述の通りバランスが良いだけでは得点を奪うことは出来ず、ましてや遅攻で得点を奪うためにはどこかで相手のマークの”ズレ”を作る必要が出てくる。 それを作り出そうとすれば
「相手の予測出来ないクリエイティビティーを見せる」
「相手の予想を上回る能力で覆い被さる(例えばアドリアーノやムトゥのような)」
「玉突き理論で相手のマークをずらす」
これらのいずれしかない。

クライフは、トータルフットボールのことを「秩序と混沌」と言ったが、中田がピッチ上のバランスを保ちつつ崩すこの秩序と混沌を意識できるような戦術的なオーガナイザー成り得るかが、 今後このスタイルを貫き通せるかどうかのポイントになってくる。

■対フランス戦で見えた問題
選手主導のチーム作りは当然主流ではない。
世界中のサッカーチームには最低1人以上の監督がいるものだ。
中田が出来るのならば、他の選手に出来ないという道理はないはずだ。
にも関わらず監督主導型が大勢を占めているのには当然訳がある。
それというのも、監督不在のチーム作りには一方にはない根本的な問題がいくつか存在しているからある。

今回のコンフェデレーションズカップのフランス戦で最も気になったことの1つに「FW(前線)が孤立した」ことが挙げられる。 特にチーム全体が間延びしているわけでもないにも関わらず、ここまで孤立してしまったのは何故だろうか?

まず挙げられるのが
「前線のFW又はOHがボールをキープしたときに周囲のサポートがないこと」だ。
サポートが遅れれば、フィジカルに優れたフランスの選手に素早く囲まれボールを失ってしまう。
問題は次だ。
では、何故他の試合ではまがいなりにも出来ていた前線のサポートがフランス戦では出来なくなったのだろうか?
これは相手の守備が全般的に良く、後のフィードなどの能力の低さが影響し、良いタイミングで良いパスが出せなかったこと。 更には、そのことでFWと中田、中村のOH2人までもがボールの引き出しに労力を割きすぎてしまった、割かざるを得ない状況を作り出されてしまったことにある。

日本はボックス型である以上、ポゼッション状態でなければボランチやSBが攻撃に参加していくことは難しい。 前線の1人がボールを引き出した後は、残りの3人がそのサポートに早急に向かう、さらには引き出す前に動き出すいわゆる”第3の動き”が必要なのだ。 フランス戦でそれができなかったというのには、他の試合では誰かがボールを一旦引き出してから、動き出していたこと、第3の動きが出来なかったことの裏返しでもあったのだ。

フランス相手にはそのタイミングでは遅すぎた。
前線のポジションが頻繁に入れ替わっていたにも関わらず、そのことが効果的ではなかったのにはこういったボールの引き出しに関わる問題があったのだ。 更に突き詰めて考えれば、FWについて言えばキープ力の低さ、DFについて言えばフィードの意識・精度の低さも当然言及しなければならないが、 先のような前線の選手達の孤立は、どのタイミングで、誰が、どこで、どのようにボールを引き出すのか、フィードするのかということがチーム戦術において全く想定されていないことの表れでもある。

そういったコーディネーターとして戦術を組み上げる監督不在があの試合では顕著であった。 確かに、宮本が入ってバックラインは安定し、中田の指揮でチームのバランスも修正されては来たが、やはり修正というのはあくまで修正にしか過ぎない。

■監督の仕事
修正液というのがあるが、今日本代表で行われている戦術的な修正というのはあれと全く同じだ。
間違った部分を消してそこを書き換える。
だが、この程度のことでは文章全体の構成は変えられない。
あくまでこれは短期的視野のもので、そこには二次的なものを含んでいない。
たとえそれが一見良いと思われた修正であっても、後から生じる副次的な影響をピッチ上の感覚だけでは考慮しきれない。

例えば、ラインの前が開きすぎるからDF全体を押し上げたとしよう。
それで守備のバランスが取れているうちはいいが、今度はラインの裏をつかれるようになった場合はどうしたらいいのか?
またDFラインを下げるのか?
「やっぱり上げ過ぎだった、今度は下げよう。」
ではどのくらい下げれば良いのか?
また、適切な高さを見つけるにはどれだけの時間がかかるのか?
そもそもそうして見つけたラインがまた破られることはないのか?

そもそもラインの裏をつかれるのは中盤のプレスがないからだ。
だとすれば今度はDFラインから中盤への注文が出る。
「もっとプレスをかけてほしい。」
中盤の選手はプレスをかけやすくなるようなボランチとOHのバランスを考える。
今度はFWへの注文が来る。
「やはり前線のチェックがないと厳しい。」
FWの二人は考える。
「もう少しDFラインやボランチへのチェックを早くしよう。」

数々の修正によりプレスは効くようになった。
だが今度はFWの位置が下がりすぎて敵陣にボールを運べなくなった。
キープできずチームが守備に負われることが多くなりDFラインが押し上げられなくなった。
今度はロングボールを放りこまれて競り負けはじめると新たな注文が出てくる。
DF「FWがキープしてくれないと押し上げられない。」
FW「後ろのサポートがない。これではキープしきれない。」
MF「DFが競り負けすぎてボランチが引っ張られる。空いたスペースのカバーで手一杯だ。」

このようなちょっとした想定だけでも、すぐに八方塞の状況になってしまった。
サッカーにいて個人個人の行動というのはすべて連動している。
初歩的な段階を過ぎれば、すぐに「あちらを立てればこちらが立たず」という状況が必ず出てくる。
そういったときにどこから解決策を見出すのかというのが監督の仕事であり、 もっとはっきり言ってしまえばチームのどの部分に見切りをつけるのかもやはり監督の仕事なのだ。

前任のトルシエ監督も当然そうだった。
チームのある部分ついては切り捨てていた節がうかがえる。
セットプレーで裏を取られることを恐れずに果敢に押し上げさせたこともおそらくそういったことの1つだろう。

口にこそ出さないがコンセプトの提供者とチーム戦術のコーディネーターとしての側面を持つ監督は、 これは監督の人格にかかわらず、エメジャケだろうがトルシエだろうがベンゲルだろうが、 多かれ少なかれそういったチーム戦術の暗部を抱えながら仕事をしている。
「おまえ達は空中戦が弱すぎる。だからラインコントロールで何とかごまかす。」とはプライドをもった代表選手達には口が避けても言えないセリフだ。 むしろそういった選手でもうまく使って何とかするのが監督の仕事なのだ。 シュートやパスが下手だからといってそれに文句を言ってはいけないし、ならばその下手な部分を必要としない、そのことが影響しないサッカーを構築する必要がある。

■選手主導の戦術の限界
少し話しを戻そう。
チームのバランスを選手主導でとるというのはある意味では理想だが、 選手という立場上、いくら上下関係があろうとも仲間の要望を取り入れようとする限り、諦めるべき、捨て去るべき戦術の一線を定めることは非常に難しくなる。 そいういう本来は捨て去らねばならない部分まで取り込んでしまうと、早い段階でチームに限界が来てしまう。

逆にDFのもっとこうしてくれという要望を、キャプテンが突っぱねるとしよう。
ここを拒否しておかねばチームが機能しなくなると考えたからだ。
しかし、これではDFラインは不満タラタラだ。
毎回同じようにやられる。
原因もわかっている。
新聞ではメンバーの一部交代も囁かれるだろう。
DFのストレスはたまる一方だ。
そんな状態になれば、選手だけでチームのいい雰囲気やバランスを保てるとは到底思えないのだ。
仮に戦術的な不均衡をもたらしている部分と戦術の権限者が同じような場合では、溜まった不満が直接選手に行くことにもなりかねない。 こういうことを起こさないためにもやはり絶対的権限を持つ監督が必要なのだ。

”監督”というワンクッション置くことで、状況は一変する。
DF「何とかしてプレスを効かせてくれ。」
MF「俺もそうしたほうがいいと思う。監督と相談して調整しよう。」
これならOKだ。
この場合の悪者は監督だ。
仮に戦術が機能しなくても最終的には監督が(一次的にせよ)悪役になることでピッチ上の選手間の不満はない。
憎まれ役を買って出ることでチームの循環を計るのも監督の大事な役割の一つだ。
そのためには監督は絶対的権限を主張するためにも、友達のような関係ではいられない。

逆に、監督が不在だとこうなる。
DF「プレスをかけてくれ。ヘルプが足りない」
MF「今調整中だ。直には解決できない。あまり文句を言わないでくれ。」
こういった言い合いを通してチームが成長する・・・ということも無いわけではないが、これらの項目が多岐に渡り、複雑に絡み合うようになると問題の解決は困難になっていく。
そうして訪れるのは、チーム崩壊というのが世のパターンだ。

今後も、日本代表が実質監督不在という状態を続けていけば、いかに中田に人徳があろうともこういった事態を高い確率で引き起こす危険性があることは頭に留めておく必要があるだろう。

(GAITI / seri)