- ■サッカーにおける異能者の役割とその特異点の発生について
- ■才能があるとはどういう状態のことか?
サッカー選手の好みは人それぞれ千差万別であるが、その中でも才能の有る無しについて議論は枚挙の暇がない。
基本的にあるサッカー選手は才能があり、ある選手は才能がないという議論は無意味であるように思う。
プロのサッカー選手である彼らには疑いようがなくサッカーの才能を有しているからだ。
しかし基本的な能力に対してプラスαの部分の有無について特に”才能”というのであれば特に問題はない。
だがそれでもサッカーに限らずスポーツ全般におけるこの”才能”の定義は難しい問題であるので、今後の話をわかりやすくするために
野球のボールスピードについて1つ例をあげることで簡単にこれを定義しておこう。
プロ選手の一般的な球速というのは実際は大方決まっているもので、ある一定までの速度までならば”普通の速度”と感じることができる。
しかしボールがその一線を越えると同時に凄まじく速く感じるなどの現象がスポーツでは往々にしてある。
具体的には150km/hを境にピッチャーの投げる球というのは急速に速く感じるようで、実際人間の反射速度で捕らえられる限界がおおよそ160km/hとも言われ、
まさにそれは限界点に近づくアプローチと言いかえることが出来るのだ。
もっと顕著な例として100mスプリントの決勝で、選手は平均して10m/sの速度で走り、たった0.1秒遅れただけで1mも引き離れることになる。
このようにプロのスポーツ選手達における特に勝負を決するのに直結した能力における能力値の差はそれがほんの些細なものでも決定的な要因になることが多い。
そういった才能有る選手、つまりある一線を超えた能力を有する選手がいかに特殊な存在であることが理解頂けただろうか?
才能ある選手というのは超能力や第6感などの現実で理解不能なものという意味でなく、「能力的な特異点」を有する選手のことを指すのである。
今後は言葉の意味を正確に表現するために、天才や才能という表現を使わずに能力的な特異点をもつ選手の意味で、便宜上これを「異能者」と定義して話を進めていこうと思う。
- ■異能者による特異点の発生
サッカーとは失敗を積み重ねるスポーツである。
そもそもサッカーという競技自体が拮抗状態を生みやすいのも事実で、それは同点である時間帯が他の競技に比べ圧倒的に多いのが原因なのだ。
最高の技術を持った22人の選手達が、90分間全力で戦ったところで1点も入らないことも珍しくはない。
結局のところ、サッカーにおいては攻撃自体は成功率の高いものでなく、逆に守ることが簡単な競技とも言える。
だがそんな中で先に述べたような論理で、ある種のプレーを高い確率で成功させることが出来る選手がいるとしよう。
ある選手が30%しかできないところを70%出来るとしたら?
これは特にサッカーという競技ではかなりの武器になるのだ。
ここでサッカーという競技全般の話から、少し戦術的な話をしていこうと思う。
例えば、ある瞬間ある選手がドリブル(あるいはパス)で敵DFを交わすとしよう。
この選手をマークするために新たなDF選手がチャレンジしてくるがそのチャレンジしたDFの本来ついていたFWがまたノーマークになるためにその選手がまたフリーで動き出す。
現実のサッカーにおける局面というものはこれほど単純ではないにしろ、基本的にはビリヤードやクラッカーと同じように初期微動がその後の現象に大きく影響を与える。
選手1人が2人分の働きをすることもあれば何の役にも立たないこともあるが、しかも前述のようにサッカーは失敗のスポーツであり、だからこそプレー機会は多く、加えて時計の止まらない流動的なスポーツであるがゆえに統計学的な検証が有効である。
1試合、あるいは1シーズンを通してプレーを続ければ好不調の波こそあれ、意図を持ったプレーは論理的帰結をもたらすであろう。
つまり異能者の役割とは、その最初のブレークショットを放つことにあるのではないかということだ。
- ■異能者と非異能者の役割の違い
実はこれには現実のサッカーに基づいた根拠があるのだ。
ずいぶん前になるが高原、小野らがワールドユースで準優勝したときの話なのだが、当時の日本代表は誰にいわれるでもなく「ある選手」がボールを持つと、
まるで攻撃のスイッチが入ったように一斉に動き出しその大会で最もスペクタクルな攻撃を繰り広げていた。
それまではボールポゼッションが高く、中盤でシンプルにボールをまわしていたのにも関わらずだ。
その選手とは本山である。
当時の本山は左サイドのプレーヤーとして試合に出場していた。
彼がただのドリブラーではないのは(本人も自分がドリブラーだとは思っていないようだが)、ドリブルの最中でも判断力と視野の広さを失うことがないためだ。
プレー自体の”クロック数”と緩急・ベクトル方向を瞬時に変えられるという点で、彼は日本人の中でははかなりの特異体質だ。もちろんスルーパスと決定力も標準装備している。
これらは攻撃の起点たるスイッチャー(攻撃の起点となる異能者を特にスイッチャーと呼んでいる)にはうってつけの能力であろう。
加えてまわりのプレーヤーも小笠原、小野、遠藤などテクニックにあふれ、シンプルにプレーする選手ばかりだったのも幸いした。
こういったチームにおける異能者の役割(特に攻撃を司る選手の)は、スイッチャーに代表される「拮抗状態」に最初のひずみをもたらすきっかけであると思う。
後はこのひずみをいかにしてゴール前のシュートシーンまでつなげるかがチームとして異能者をいかに生かすかの問題になってくる。
(余談だが、磐田のように個々人の能力が高く、しかもパスワークが巧みであると特異点自体がどこから発生したいるのか全く分からない。)
そこで出てくるのが、言わば異能者の対極に位置する非異能者タイプの選手だ。
彼らは例えばガンバの二川や橋本などの「基礎技術一般を高いレベル身に付け、良い意味でアクのない選手」などがその代表である。
これらの選手は異能者タイプが時折見せる無茶なプレー(一応断っておくが、常人には無茶に見えるプレーが彼らには往々にして直感レベルでつながっている点も考慮した方が良い)の類は全く見せない。
その論理的でノンストレスなプレースタイルは異能者がもたらした歪みをゴール前まで持ちこむ時になどは非常に有用である。
だが面白いことに性質上対極にあるこれら2つのタイプに共通して見られる状況として、ある種の監督に非常に嫌われやすいのである。
もちろん優秀な監督であればそういったこともないであろうが、中村に代表されるような異能者タイプは時にネガティブな面がクローズアップされ「バランスの悪い選手」
あるいは「好きなプレーばかりする怠慢な選手」に映り、逆に二川・橋本などの非異能者タイプは「特徴のない選手」と言われる事も実際多い。
ただ、それでもなお中村のような一生かかっても真似できそうもないパスを見たときには特別な選手であると感じざるを得ないわけで、
逆に二川・橋本らの基礎テクニックはその意外性の無さも手伝って実力が正当に評価されないのも確かであろう。
どちらがどちらと言うことは出来ず、これらのタイプが共存することであたかもモーターと歯車のようにチームは機能的に優れた特性を見せる。
もちろん両方のプレーが出来、それを状況に応じていつでも切りかえられれば理想なプレースタイルであろうが、
1つ苦言を呈しておけば、そもそもバランスが良くてそれでいて優れたプレーを連発する選手など世界中でも極々一握りであることを記憶しておいてほしい。
どうも我々は優れた選手をいつでもテレビで見られるようになったおかげで少々贅沢になりすぎてしまったようだ。
チーム作りとは長所も短所も含めてそれをどう生かしながら補っていくかの作業であるし、そうでなくてはサッカーは何の面白みもない競技になってしまうだろう。
また、このコラムをもって中村、及び二川・橋本問題に決着をつけたいと思う。
中村はボールを決して持ちすぎてはいないし、二川・橋本はそう平凡な選手ではない。
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