- ■新しい思考法の提唱:ユニット論
- ■ 対立する2つの論理「戦術主義」「実践主義」
歴史的な変遷を含めかつてよりサッカーに多大な影響を及ぼしてきた戦術であるが、一般レベルにおいてはその存在すら認知されていないのが現状だ。
確かに戦術がサッカーの全てではないにせよ、戦術やシステムをいかに捉えるかはサッカーにおける重要な要素であり、それが占める割合は決して少なくない。
サッキはかつてその重要性を指して「サッカーで重要なのは戦術である」と言ったほどだが、一方で「サッカーに戦術は関係ない」と言う者も多数存在している。
このような両極端な意見がまかり通るのがサッカーの面白いところではあるが、だがこの種の対立が監督達だけのものではなく、その周辺であるはずのファンの間ですら激しく議論されている。
戦術の存在について言及するそれらの議論をよく見ていくと、大別して2つの傾向が見られることが分かる。
1つは先のサッキに代表されるような戦術を重視しそれをチームの中心に据えようとする「戦術重視」の考え方、
もう1つが戦術はそれほど大きな存在ではなく大事なのは選手個人だとする「実践重視」の考え方である。
(中にはそれが発展し戦術の存在自体が意味を成さないとする「戦術否定」派も存在する)
まずはこれらの対立を「戦術主義」と「実践主義」の構図に置き換え、しばらくはそれぞれの論拠の特徴について見ていくことにしよう。
- ■戦術主導のチーム作り
サッカーにおける戦術の効果として、それは多くの場合においてチームに方向性をもたらしていることが挙げられる。
戦術自体は抽象性が高く、3−5−2や4−4−2など過去の範例に基づいたイメージをサッカーファンに共有させ、
正しく実践すれば格段の効果が得られるものではあるが、同時にこの抽象性が選手達にプレーイメージを掴みにくいものにさせてもいる。
これらを実践する戦術家がチームを構築する際にはじめにすることは「コンセプト」を掲げることである。
戦術の根幹とはこのコンセプトであり、それが全ての始まりであると言ってもいい。
一例を挙げるならば次のようなものになるはずだ。
【初期コンセプト】:プレスをかけて逆襲サッカー
↓
【第1段階】:プレーイメージを思案
1. 前線からチェックにいく
2. 中盤でいいかたちでボールを奪う
3. ゴールまで最短で攻撃する
4. etc
↓
【第2段階】:プレーをより具体的なものへ
1‐1.ボールサイドのFWに守備を、逆サイドのFWをカウンターに備えさせる
1‐2.引き気味のFWにはポストプレー、前目のFWには裏を意識させる
1‐3.etc
2‐1.FWと連動して中盤を収縮させる
2‐2.SHが縦をふさぎ、ボランチがプレッシャーをかけ、CBは裏へのパスを警戒する
2‐3.etc
3‐1.手数をかけないために早めにFWにボールを当てる
3‐2.etc
4‐1.etc
↓
【第3段階】:プレーをピッチ上で表現できる練習を模索
1‐1‐1.ボールの位置を常に意識し、常に2トップの連携が出来る距離を保つ
1‐1‐2.etc
↓
・
・
↓
【最終段階】:チーム戦術に基づいた役割をほぼ全員が理解・実行できる段階
このように”初期コンセプト”を頂点とするピラミッド型に形成された思考は、上から下へとより具体的な方向へと連想が立体的に膨らんでいく。これが戦術家のチーム作りであり、初期コンセプトが守られさえすれば、それを実現するために具体的な策を模索し、理詰めでのチーム作りを目標としている。
だが初期コンセプトの見誤りはチームに取り返しのつかない代償を払わせることもある。
戦術家は独自の戦術、つまり独自のコンセプトを打ち出す場合が多く、フロントなどは監督がかつてどんなコンセプトを打ち出していたか、それがチームの現状で実現できるものかを十二分に検討する必要が出てくるわけだ。
- ■実践的なチーム作り
これに対し、戦術に反発するような実践的なチーム作りをしようとする者も存在する。
「戦術はさほど関係ない。大事なのはプレーの質と選手の意識である」といのが彼らの考えであり、その論拠となるのが「現代サッカーにおいて局面は常に変化するため、システムや戦術などの幾何学は意味を成さない。」というものである。
彼らがチームを作ろうとする場合、まずは選手を見ることから始まる。
選手の能力を見極めるためにまずは年齢経験を問わず、レギュラーとサブを一旦同じ土台に乗せ、出来るだけ能力の絶対値の高いものを優先するよう心掛ける。
そうしておいてピックアップした選手達の力を生かせるようなチームを編成するのだ。
ここで重要なのは個人の高い能力と状況判断の能力であり、これは戦術家が相手への対応を鍛錬(組織力)によりある程度規定しているのに対して、逆に選手の判断において自由にバランスをとってプレーすることを望んでのことである。
これを実践するために監督は、選手の能力を向上させ、カバーリングの意識付けをし、またそれらの能力をピッチ上で活かせることを重視する。現レッズの監督であるオフトはまさにこのタイプであり、ジーコ代表監督もこのカテゴリー属している。(ネットライターの湯浅さんはこのタイプにあたる)
そのことを象徴することとして、このタイプの監督が述べることが技術的に見て非常に具体的である点だ。「ここはこうしたほうが良かった」「このプレーを意識した方がいい」などと、思ったことを特に選手の細かな技術的な部分に対しズバリと指摘していく。実際、戦術家よりはこちらのタイプの方が選手の受けは良いようで、現役時代テクニシャンとして知られていたアルディレスがマリノスの監督に就任したときの技術的な指導に、中村など「もっと早く出会いたかった」と言わせるほど有用なものであったようだ。
このように一見、選手にしてみれば理想的な監督像とも思える実践主義者だが、一方で同タイプのカペッロの指導を受けた中田がパルマに移籍してから戦術家のサッキに同様に戦術的な疑問をぶつけたときに「カペッロよりもちゃんとした答えが返ってきた。」とも言っている。つまり実践主義者が選手に近い位置で良く見ている変わりに、戦術などのサッカーの全体感がつかみきれていない場合が往々にしてある。言ってしまえば戦術をさほど重視しない変わりに戦術そのものに長けてはおらず、一部の「戦術は関係ない」という言葉にはあまり説得力が無いのも確かである。
Jリーグの監督が実際どのタイプか判断するのは難しいが、サッカーを戦術家のようにマクロに捉えるのか、実践主義者のようにミクロに捉えるのかでサッカーの見方が180度違うと言っていいだろう。
- ■対立の要因
お互いの論理に違いがあるのは分かった。
では何故それが対立へと結びついてしまうのだろうか?
結論から先に述べるならば、これは詰まるところ選手をどう捕らえるかということに起因している。
例えば戦術家タイプは戦術やシステムが内在する長所と短所を理解し、凡庸性のあるチーム作りをしようと苦心しているのに対し、
実践主義者たちはチームでその選手達をどう活かそうとするかということにその労力を割いている。
チームにおける異能者の扱い方を見れば、その違いが顕著に表れている。
まず戦術家にとってはそういった選手達の存在は考えないという前提がある。
特殊な何かを持った選手はどのチームにも存在するものではないという意味でその選手に頼るサッカーは凡庸性がなく、ましてどんなときでも常にその力を発揮できるものでもない。
そういった存在に頼らずにチームを作ろうとし、またそういうことが出来るのが彼らだ。
例えばこれが実践主義タイプの監督であれば、能力が高く、ディシプリンを守りさえすれば何とかしてチームの核として機能させようと必死になるはずである。
このタイプのチーム作りの多くが選手と選手同士の固有の連携力がチーム組織の目安であり、まさに戦術家が廃しようとしている選手固有の特殊性を前面に押し出している。
だが、そういったチームを作ってしまうと選手固有のプレーリズムと連携が重要に成り過ぎ、選手の調子が悪くなったとき、もしくはいなくなったときのチーム力の低下が劇的である。
逆に言えば、凡庸性を重視する戦術家は上記の理由で異能者の能力を前面に押し出して、それを生かすようなチームの方針をなかなか建てようとはしない。
これらのことを具体的に表す例として、ジャウミーニャを中心としていたかつてのラコルーニャが挙げられるだろう。
ラコルーニャはイルレタを監督に迎えた近年からリーグ優勝など躍進したスペインリーグのクラブである。
ジャウミーニャは左利きのいわゆるトップ下のファンタジープレーヤーであるが、彼がいるときのラコルーニャは鋭い攻撃と華麗なパス回しを中心としたチームであり、その要所要所でジャウミーニャの意外性のあるプレーがその攻撃に彩りを加えている。
しかし、性格難とその粗っぽいファウルによって彼がまともに試合に出ていないときも実際はかなり多かったのだ。
そんなときのために、イルレタ監督はもう1つチームを用意した。
ジャウミーニャがいないときのラコルーニャは本来の攻撃的なスタイルは影を潜め、イルレタの十八番である組織的カウンターチームへと変貌するのだ。たった1人選手がいなくなっただけでチームの戦い方自体を大きく変える必要があるほどジャウミーニャ=キープレーヤーの存在は重要であった。
このように個人の能力を引き出してチームを作るやり方は、選手やファンの声に容易にこたえられる一方で、
キープレーヤーの有無によるチーム力の上下動の激しさなどのネガティブな側面が顔をのぞかせたときにチームの破綻をもたらす場合がほとんどであるのだ。
これはそういったあらかじめ予測可能な状況をチームの方針に盛り込んでおくことで解決した好例であるが、
それでもこれらの方法がチーム力の安定という意味でも、また戦術家にとって場当たり的で受け入れがたいものであるのは事実であろう。
このことを理解していれば実践主義者が積極的に取り入れている異能者を彼らがあらかじめ排除してしまおうという意図もわかる。
実際にその種の選手がチームに入ってしまえば、その力量に対し感覚の鋭敏な選手達はどうしても異能者の能力を計算して戦ってしまう。
それはいくら監督が熱心に、「そのプレーではいつか止められてしまうかもしれない」と力説しても潜在的な心理は変えられないものであるからだ。
- ■理想的な思考法を求めて
戦術主義と実践主義、現在に至るまで両者は対立している。
(より正確に言うなら戦術家はほぼ一方的に実践主義者には嫌われている)
実際には多くの監督が戦術的にも技術的にも均等に力を割いており、これは戦術派と実践派は数直線上のプラスとマイナスと同じで0か1というよりどちらにどれくらい針を振っているかの問題であることが良くわかる。結局、両者の最大の違いは先に述べたようにチームにおける選手の役割をどう捉えるか、つまり選手からどのようなプレーを引き出すかの”方法の違い”に起因しているのである。
ここで押さえておかなければならないのは、両者のうちどちらともがサッカーの枠組みの中で本質の一部分を占めており、それどころかお互いがお互いの弱点を補完しあっている点だ。
互いにその論理を突き詰めても片方でサッカーの枠組みの中で補完できるのはせいぜい6割ほどだろう。だからこそ多くのケースでそれらの思考法を切り替えながらチーム作りに取り組んでいる。
だがそのことにすら不満はある。
果たして両者を臨機応変に使い分けること、まるで二枚舌のように使い分けることはサッカーを正しく見ていると言えるだろうか?
両者の優れた論理に矛盾せずにそれらを融合させるような、より実感に近い思考法があって然るべきではないだろうか?
そこで提唱するのがより実感に近い"ユニット論"である。
- ■ユニット論の基本構造
戦術主義と実践主義、それらの方法論は大きく違っても1つだけ共通している部分がある。
それはどちらもが結局は「こういうプレーをやらせたい」という監督のプレーイメージ実践させようという意思があることだ。
つまりあるシチュエーションを導き出すための道具としての戦術であったり、選手であったりするかの違いでしかない。
あるのは前者がサッカーを1歩引いた位置で全体感として捉え、後者はより選手に近い目線の近視眼で捉えているという思考のプロセスの違いだけである。
ここで提唱する”ユニット論”とは、このシチュエーションをイメージするのに最適な大きさのユニットとして捉える思考法である。
つまり戦術論が象徴するような11人を1つの単体とする考えでも、実践主義の言う1人1人のグッドプレーの集合とする考えでもなく、
2〜4人ほどで構成されたユニットの集合としてチームを見ていくユニット論の基本構造である。
何故ユニットに分割、あるいは展開する必要があるのかというと、選手の視野と判断のスピードのに要因が隠されている。
サッカーは22人で行うスポーツであるが、実際にピッチでプレーを行う場合には常に味方の11人の選手と連携しているわけではない。
実質、関係するのは周囲の味方(あるいは敵)数人だけであり、あの選手がこう動いたから私はこう動く、といのがよく組織されたチームというものである。
こうでなくては22人の選手の動きを追いながら状況を判断していたのでは、実際のプレー、判断の段階で問題を起こす。
ましてや22人の選手の動きを確認することが出来るはずもないであろう。
従って現実のサッカーでは1人の選手はチーム内の数個の”ユニット”に属し、
例えばボランチならDFとサイドとの連携(プレス、カバー、スペースへのパスなど)、
中央のMF同士の連携(前後、プレスなど)、FWとの連携(楔のパスなど)などを求められ、
それぞれのユニットで役割が厳密化されており、それを行うのに許容できる能力が必要である。
- ■橋渡しとしてのユニット
ユニットの考えの方が、先の2つの論理形態よりも比較的実感に近い印象であることが理解頂けただろうか?
ユニットを意識する利点の一つが、この”より現状に近いイメージでサッカーを捉えることが出来る”というものであるが、
実はこの考えを発展的に拡張させることで上記の2つの論理を簡潔に説明することが出来るという点においても大きな利点がある。
つまりチームの構成がユニットを基本単位いとしているのならば、全体感であるところの戦術主義はユニットの集合としての側面から語ることが可能であり、
また実践主義はユニットが果たすべき役割を個人単位の役割へと落とし込むことに他ならないからだ。
例えば戦術論で言うところのシステム(フォーメーション)とは、ユニットとは切り離せない関係だと気がつく。
選手配置の規定をチームプレーの構築の段階で、より現実的で局所的な形に分解しようとしていけばユニット的な視点を持たざるを得なくなる。
逆に言ってしまえば、システムはユニットの集合としての仮の姿であるといって言いだろう。
「3-5-2を使うならばサイドの攻防が中心になる。」などの各システムにおいてスレテオタイプなプレーイメージをつかむことが出来るのは、
システム自体がユニット(とそれによるシチュエーションプレー)を内在させていることを無意識のうちに理解している証拠であろう。
また実践主義で言うところの「個人を生かすための連携や選手の組み合わせ」も、究極的には連携の良い選手同士のユニットを構築することがその目的であるとも言える。
個々人が周りとの関係を常に自覚・自立的に意識しながら戦う実践論だけでのプレーに対して、ユニットを意識していけば若干自由度は小さくなるものの動きがシステマティックに規定されたものになることで、
(天才にしか許されないとされる全体視野を持たずとも)周囲の状況をまわりのユニットとの関係から戦術上の選手の判断スピードが格段に挙げることが出来る。
選手の判断が助けられる反面、効率的で効果的な動きを生み出すために監督が頭を悩ませることにはなるが。
逆に今までのような実践論、つまり選手ひとりひとりにバランスを取らせるやりかたというのは戦術面ではあまり頭を悩ませずに済み、
その代わりにどの選手を組み合わせることで有効なコンビネーションが生み出されるか、選手のコンディションはどうか、モチベーションはどうかなどのことに思慮を廻らすことになる。
- ■ユニットで考える効果とは?
このようにユニットをそのチーム構築の中心軸に据えると、
・戦術論
「システム」=ユニットの集合と延長
「戦術」=ユニット間での共通意識
・実践論
「連携」=効果的なユニットの構築
「個人能力」=ユニットの分解による役割分担
とかなり整理された形で上記の各論について語ることが可能でありそうだ。
しかし賢明な読者なら既にお気付きかもしれない。
実はこのユニット論自体、さほど革新的なことは言っていない。
これを提唱することでサッカーの見方が劇的に変わるわけでも、まして新しい戦法が生み出されるわけでもない。
ユニット論がもたらすことが出来る最大の効果、それは二極化してしまった戦術主義と実践主義の垣根を取り払うカウンターになるかもしれないいうことだ。
戦術論に振りすぎなネット上でのサッカーとそれらに反発するような実践論。
これらをより現実のサッカーに近い形で見るための新しい提案・ツールとしてこそ実はユニット論は有用であったりする。
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