■決別
日本がアルゼンチンに負けた。
もちろん、この結果を予想できなかったわけではないのだが、
ホームでの4失点は1995年8月の対ブラジル戦(1‐5)以来の記録的大惨事だと言う。

だが、そんなことすらどうでもよかった。
そろそろ、沈黙を破りジーコについて語っても良い時期なのかもしれない。

■「我々は」・「彼に」・「何を」期待したのか?
「ジーコが日本の監督になるらしい。」
この話しを聞いたとき、正直複雑な心境だった。
まず、直感的に思ったのが「ジーコが日本代表を無茶苦茶にしてしまうかもしれない。」ということだ。
ジーコのこれまでの指導方法やその選手時代を含めた様々な経歴と
組織戦術の塊である現代表の相性を考えた場合にはそれは十分に起こりえる事態だった。
だが一方では、その指導法がもたらす大きな可能性に期待もしていた。

トルシエのチーム作りの常に中心に位置していたもの、それは戦術だった。
戦術はチームに安定感をもたらしたが、同時にそれが縛りとなりある種の限界を感じさせていたのも事実だった。
ポジティブな意味でも、
そしてネガティブな意味でも、
4年間の長きに渡って、日本代表は戦術の完全なる奴隷だった。

だがジーコが監督になることで、長きに渡り抑圧されたものが解き放たれる可能性があった。
なぜなら彼のプライオリティーは戦術ではなく選手だからだ。
それは考えるまでもないほど自明なことだったし、
実際、ジーコは代表監督の就任以降、年齢を問わず常にベストメンバーで戦うことを公言している。
まずは選手を受け入れ、その個性を最大限生かそうとするそのスタイルは、
サッカーの理想であると同時に4年もの間、日本がしまい込んでいたものであることは確かであった。
ジーコのトップ選手としての経験は、そういったサッカーをする上で正しく生かされるはずだ。

これはチームの構築というよりも、むしろ日本代表というものを語る上で極めて重要な問題だった。
例えば、トルシエ時代の日本代表は集団としては素晴らしかったが決定的に欠けている部分があった。
それは紆余曲折の後、最終的に選ばれた選手達のレベルが、お世辞にも「これが日本を代表する選手」とは言えなかったという点だ。
つまり日本代表というよりはワールドカップ日本枠あるいはトルシエチームと言った方が良いのかもしれない。
もちろん各人はそれぞれの役割を非常に高いレベルでこなし、選ばれるして選ばれたのだが、それとこれとは少し話しが異なる。

その点においてジーコは違う。
彼が個性を前提とするならば、日本チームは”日本を代表する選手”で構成された”本当の日本代表”になる。
真に誇らしい「日本代表」を見る日が来るようになるとは、何とも素晴らしいことのように思えた。

ジーコを就任させる意図はまさしくそこにあるはずだ。
こういった可能性は非常に捨てがたいものであるし、
そのことはトルシエ時代にファンが常に抱えていた選手選考に関するストレスの多くを解消することができるだろう。
もちろん最初は慣れないやり方に戸惑い、不甲斐なく負けてしまうかもしれない。
でもそれが日本を代表する選手で構成されたチームであるのだったら文句は無いだろう。
大なり小なり、結局はそれが日本の実力だからだ。

だからジーコがしなければならないことというのは、実にはっきりしている。
「今の日本人の実力をありのまま発揮させる」
これこそが我々が彼に期待すること、彼に課せられた指名だった。

サッカーライターの西部氏も季刊サッカー批評でジーコを監督として次のように定義している。

「ジーコ」=「選手間のハーモニーを重視する選手選定型の監督」
=「セレクター」

そして西部氏が寄せた期待も、おそらく本質的には私と同じものであったと思う。

■日本への愛着
「日本代表監督」

このフレーズに人々はどれほどの価値を見出せるだろう?
例えば前任者のトルシエはこの立場をステップアップに利用していた。
アフリカでの監督業に区切りをつける意味でも、彼なりにこの立場にメリットを見つけていた。
多くの外国人監督にとってワールドカップにすら参加したことのない国の代表監督になど
メリットやステータスを見出せるはずもない。

良く考えて欲しい。
ではジーコはどうなのだろうか?ということを。
世界最高クラスのMFとして過ごし、そのプレーから「神」とまで形容される現役時代を過ごした人物にとって
弱小アジアの小さな島国で代表監督に就任するメリットはあるか?

ない。全くない。

ジーコ本人もこの歳でほとんど初めてとなる監督業に就くことのリスクは十分認識しているはずだ。
それでも彼は敢えてリスクを負って日本の監督になった。
その決断を促したのは、彼の中の日本サッカーへの深い愛着であることはおそらく間違いない。
ジーコは日本を愛しているし、本気で強くなって欲しいと思っている。
それだけで私にはジーコが代表監督になるに相応しい資格を有していると感じられた。

これら2つの理由から、私は当初ジーコ就任にはかなり前向きだった。
「当初の構想とは違ったが、そういう監督もいいのかもしれない。」
そう思わせるだけの資格を彼が持ち合わせているように思えた。

■食い違ったセレクション
話を少し前に戻そう。
トルシエは日本代表を選ぶ際にチームとしての完成度を優先し、ベストではないメンバーでチームを作っていた。
ベストのメンバーの定義は難しいが、トルシエの選んだそれの少なくとも幾人かはベストではないと感じられた。
もちろんそれがトルシエのチームを構成するのに欠かせない選手だったとしてもだ。

それは裏を返せばチームをある意味では自分の思いの通りのものにしてしまうことだった。
それは危険なことなのだ。
代表チームの公共性が少なからず損なわれたときに起こること。
それはチーム是非の判断基準が、愛着からくる”無条件の賛同”から、
純粋に”勝てるチームであるか”という方向にシフトしてしまうことだ。
内容の伴なった勝利でのみ評価を受けるというのは、実際これは非常に厳しいものだった。
「トルシエさん。私達の思いとは違うメンバーを”わざわざ”選んだからには、もちろん勝ってくれるんでしょう?」
協会をはじめ、ファンの目はそういった態度で、しかもほとんど無自覚で評価していった。

実際、トルシエの背中には
「勝てば良し。負ければすぐクビ。勝っても、内容が悪ければそれもクビ。」
という重圧が常に掛かっていた。
にもかかわらずトルシエはポイントとなる重要な大会でことごとく成功を収め、
協会のプレッシャーをかわし、期待を上回るノルマを達成し続けた。
だがこれは戦術を重視するトルシエの独特の選手選考がもたらした特殊事情であって、
通常では起こりえない事態ではあった。

だが、ここに来て何故かジーコにも同様の批判が見受けられる。
今の日本代表は確かに「勝てない。内容が悪い。」という状態だ。
だがしかし、先のベストメンバー論からするならば
ジーコはベストメンバーを選んでいるのだから、我々の反応は
「勝てないのはまだ日本人の実力がその程度だから・・・」
という理由から愛着からくる”受容”であるはずだ。

だが世間の反応は違った。
アルゼンチン戦とパラグアイ戦を見比べてた人々の感想はこうだ。
「ジーコは選手の選び方が悪い」
それは冷酷な事実を伝えていた。
”セレクター”であるジーコ、ベストメンバーを選べない。

誰も指摘しないことがひとつある。
ジーコが皆の思うベストメンバーを選べていない、と世間が感じ取った瞬間、
必然的に我々の視点はある方向性へとスライドしていく。
もうお気付きだろう。
ベストメンバーを選ばな時点で日本代表はジーコのチームとなり、
そっくりそのままジーコの立場は張子の虎であったトルシエと全く同じものへと変質していく。
そういう評価の仕方に私たちが慣れてしまったということも当然あるだろう。

確かにそう言う意味では、ジーコが自分の哲学を貫き通そうと機能しない「黄金の中盤」を頭に描き続けることは
同じく戦術という哲学を守り通したトルシエと同じように「勝たないとクビ」という評価基準を導き出しても何ら不思議はないのだ。
協会が「コンフェデでは結果を求めない」と言っているのは、
未だにジーコニッポン=ベストメンバーを頑なに信じていることの裏返しでもあるのだろう。

■ジーコジャパンの戦術的諸問題
セレクターであるジーコがベストメンバーを選べない。
これは考えるほど致命的な問題だった。
例えば、戦術にこだわるのに戦術を機能させられない監督がいるとしよう。
結果は悲惨そのものだ。
バルセロナを去ったファンハールがいい例だろうか。

ベストメンバーを選び取ることができない以上、
ジーコに残された道は彼の選んだ選手でチームを戦術で機能させ、尚且つ勝たせる必要出てくる。

だがここでもジーコはミスを犯した。
彼はトルシエの戦術を継承しなかった。
物事には相反する側面がある。
ジーコは戦術を継承しなかったことで、自分なりの好きなチームを形成できる喜びを得たが、
それは同時にチーム戦術を自らのアイディアと手腕によって再構築する必要が出てくること、
更にはトルシエ時代のそれよりも有効である必要があるのだ。

では結果はどうだろうか。
もちろん初期のトルシエ時代の戦術だって、
意図するものが明確にこちらに伝わるまで相当な時間を有した。
だからしばらくは待つことにした。
ジーコが示す”意図”が”試合を通して”こちらに伝わるまでは。
戦術が機能するまでには時間はかかるが、その”意図”を示すまでにはそう時間はかからない。
そうしてじっと待っていればコンフェデレーションズカップの前まで、
アルゼンチン戦を終えるころまでにはその明確な答えが見つけられるはずだった。

では問題のアルゼンチン戦。 相手は強豪とはいえ、戦術的問題が山済みの試合だった。

はっきり現れているのは守備の問題。
アルゼンチンの4得点のうち、流れの中からの得点は3点。
そのいずれもがミドルシュートによるものだ。
このことに象徴されているように、
日本のDFラインのうち中央のCB2人のポジショニングが低すぎる。
理由は様々だが、SBの守備力が低く、カバーリングを意識しているのもあるだろう。
しかし何より、森岡のカバーリングしかしないそのプレースタイルと
その森岡と同様に秋田のカバーリングの意識が強すぎるのが問題だった。

一般的にDFが取る基本的守備方針は2つ。
”あたる”か”下がる”かのどちらかだ。
後は全てタイミングと初動の位置の違いでしかない。

”あたる”行為はプレッシャーや競り合い、チェックを象徴しており、
一次的なFWに対する前方への圧力を象徴している。
”下がる”はカバーリングやゴール前でのポジショニングなど
相手の二次的な動きを前提とした先読みのプレーを象徴している。
前者が比較的プレーの成否がはっきりするのに対し、後者はその効果が現れにくい。
もちろんDFに最も必要なのは前者の”あたり”の意識の方だ。
後者はもちろん必要だが、これはあくまでも二次的な守り方だ。
もちろんそれはカバーリングを前提とした先読みのプレーだからなのだが、
そもそも”あたり”による相手のプレーのベクトル方向を限定するからこそカバーリングは成り立つ。

この2人には”あたり”の意識が無さ過ぎた。
もっと言えば、自分の背中のスペースを感じたり使ったりすることが下手なのだ。
常に相手を自分の視野の中に捕らえておこうとする傾向が顕著だ。
この守備を見たときに真っ先に思い付いたのは札幌の守備だった。
2001年度のJ1リーグ戦において、当時まだJ1だった札幌には”ロスタイム失点症候群”と揶揄されるもの発症していた。
これも前述の日本代表のDFラインと全く同様の問題を抱えており、
ロスタイムの前がかりになったFWに対して、視野の中に常に捉えようとDFライン(DFが)が下がりすぎたために
相手に自由にポジションを取られたことでロングボールを跳ね返せなくなったことに原因がある。

かつて前衛的とまで言われた日本代表の守備ラインが、
事もあろうかコンサドーレレベルにまで低下したことには頭を抱えずにはいられない。

2失点目のサネッティのミドルシュートへ繋がる一連の流れなどは、
ボランチを3人も要していたにも関わらずCBが引きすぎでDFラインの前に
ポッカリと大きな穴を空けてしまっていたことの表れでもある。

DFラインが低いことでボランチのサポートが効かなくなる。
守備が機能しにくくなるからボランチはどうしてもDFラインに引っ張られる。
攻撃時の上がりによるサポートも遅くなっていくから、当然FWのキープは大変になる。
いつまで経ってもサポートが来ない。
サポートが来ないからキープできない。
そもそもサポートが出来るほどキープできない。

試合後のコメントは笑える内容だった。
FWは「後がサポートしないから」と言い、
DFは「前がキープしないから押し上げられない」と言い、
頼みのMFは「どこで奪うのか明確な形がわからない」と、
あれも出来ない、これも出来ない。
無い無いづくしのオンパレード。

確かに戦術が機能していなかった。
いや、そもそも戦術がない。
戦術が機能しないというのは「当初意図していたことがうまくいかなかったとき」にはじめて使う言葉であって、
意図もないのに戦術が機能しないとは言わない。 戦術どころか、それ以前のチームとしての体裁が既に崩壊している。
実はそれにこそジーコジャパン最大の問題がある。

■資質という致命的問題点
これまでのジーコ日本代表の試合を見る限り、
そこからジーコの”意図”と呼べるものを私は見つけることはできなかった。

このことは私達に2つの可能性を提示している。
1つはジーコには”戦術的意図”はあるのだが、それをピッチ上でまだ再現できていない場合。
もう1つはジーコに”戦術的意図”そのものがない場合だ。

百歩譲って、ピッチ上では確認できなかったが、その発言から読み取れる意図があるとすれば、
彼がしたいのは「黄金の中盤」と形容される豊富な中盤のタレントを生かして、創造性あふれる攻撃を繰り返すことだ。
だが一方でこれは戦術の意図とは呼べる代物ではないことは確かだろう。
「黄金の中盤」とはイメージの総称であって、”意図”とはより具体的で技術的なものだからだ。
中盤に豊富なタレントをそろえる割には、相手がユースチームだろうが、
百戦錬磨の強豪アルゼンチンだろうが全く相手の強さに関係なくジーコジャパンは苦戦している。
今の代表の戦術レベルを一言で表すとするなら、「チームをチームとして成り立たせることすら現状困難なレベル」にあると言える。
どんなに強力な力を持った人でも、足元がふらついていれば簡単に倒されてしまうのと同じで、
日本代表は相手に力量に関係なく苦戦する。
ジーコはその意図以前に、チームとしての体裁を保てるだけの最低限のレベルの戦術を機能させられずにいる。

これは大きな問題なのだ。
ジーコのやりたいことは素晴らしいことの様に思える。 だがそれが例えどんなに素晴らしくとも、それを実行するチーム自体が地盤沈下しているようでは実際には具現化不可能だ。
もしジーコにやりたいことがあるならば、それを載せる為の地盤をまずは固めなくてはならない。
「創造性あふれる何とやら・・・」の前段階での戦術的な初歩的問題をクリアしなければならないはずだ。
だが、今はそれすら出来ていない。

ジーコのやろうとするサッカーが「相対性理論」ならば、
今、日本代表で問題になっている戦術的修正点というのは
小学校の九九レベルの問題なのだ。

通常のチームで通常起こりえる通常の戦術的問題点すら現段階で解決できていないといって間違いない。
そして通常、世界中の多くの監督の仕事の大半は、次々と試合で露呈されるチームの問題点の修正に費やされているのだ。
一方でジーコはそういう問題が存在していることにすら気が付いていないようなのだ。

これはつまりジーコのコンセプトなり意図なりの是非以前に、
彼の監督として経験が足りていないことを意味している。
そのことを才能がないというのなら、ジーコには才能がないのだろう。

確かに、九九レベルの戦術的修正を監督任せにして
いつまでたっても自分達で解決しようとしない、できない日本代表選手に
ジーコの監督遂行能力以上の問題を感じずにはいられないのだが、
そのことはここでの話とはまた別の話だ。

整理しよう。
セレクターであるジーコはみなの思うベストメンバーを選べなかった。
そもそも選手を生かすという以前に、能力ある人を選べていないのが問題だった。
次に戦術に代表されるチームの構築する才能、これにも恵まれていない。
指導全般をはじめ、諸問題を掘り起こす能力、解決する能力ともに通常の監督レベルにすら達していない。
これらのことは一つの論理的結論を導き出している。

つまり
「ジーコにはやめてもらうより他に方法がない」
ということだ。

彼の意図するコンセプト以前に、
チームをチームとして成り立たせる約束事とは何なのかすら知らないようでは
たとえ彼の理想のサッカーがたとえどんなに素晴らしくても全く無意味だからだ。

どんなに素晴らしい想像力を持った作家であっても、
文才がなければそれを人に伝えられないこと同じだ。

だからジーコは監督に向いていない。

■決別
ジーコはセレクターとしての能力も戦術家としての能力も持ち得なかった。
だがそれは広い意味で言えばジーコが失敗したのではないとも言える。
彼は監督未経験なのだ。それを考えれば良くやった方だ。
ジーコには責任はない。
敢えて言うならば、そんなジーコを選んだ協会にこそ責任があるだろう。

一方、ジーコがここまで戦術をカオスにしてしまったことで
逆に明確になったことがある。

それは「結局日本人はまだまだ能力が低い」コンセンサスの確立だ。
先のワールドカップのような強さを見せたかと思えば、
ちょっと組織が未整備になっただけであの程度のパフォーマンスしか出来なくなった。
「日本の強さ」=「組織に支えられた強さ」であったことが明白となり、
これまでも、そしてこれからも、それ無しには強いチームを構築することなど当分不可能であろうということだ。

戦術なしの個人、という古き良き幻想は消えた。
今後の日本代表に求められること。 それは、「組織の中でもしっかりと個性を生かす」これしかない。
ある種の諦念(ていねん)と確信を常に心に抱えながら、組織力を最大限高めていく。

次の監督が優秀な人物であるならば日本はまた強くなれるだろう。
日本の多くのスポーツでそうだったように
世界最高の組織力によって・・・

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