■「個の自由・組織のタスク」

「個と組織」

既に使い古された感すらあるこの言葉だが、一部の心無い先人が節操なく垂れ流してきたおかげで、 すっかり先入観が出来上がってしまったように感じるときがある。 その先入観は、何かサッカーの本質について論じようとする際に、必ずと言っていいほど我々の前に立ちはだかる障害となってきた。

サッカーにおいて頻繁に議論に上る「個・組織論」についてこれから述べることにする。

■「個と組織」のステレオタイプな認識
世間一般で広く用いられる「個と組織」の関係性についての解釈には、大別すると2通りのものがある。
一つは「個」と「組織」の排他的関係を強調したもの、もう一つはそれらの柔和的関係を強調したものだ。

排他的論調では個と組織はこのように扱われる。
「世の中には”個を主体としたサッカー”と”組織を主体としたサッカー”がある。
前者が個人のポテンシャルを生かした”良いサッカー”で、後者は監督が選手を思い通りにしたいだけの面白味のない”悪いサッカー”だ」

サッカーライターの永井氏などはこの論調を用いてジーコとトルシエのサッカーを比較し、前任者を槍玉に挙げる場面が目立つ。

それとは対照的に柔和論調では
「サッカーには個と組織の両方があるが、どちらも等しく大事である」
と前者のような過激な論調はとらないものの、そのかわりに突き詰めた話にまでは至らない。
オリンピック代表監督の山本昌邦監督を始め日本技術委員会の面々は大方がこちらの論調といえる。

■個とは何か?
個と組織を論じる上で重要なのは、「個」や「組織」がそれぞれ何を表しているのかある程度定義しておくことだ。
未定義なもの同士の不確定な関係性について論じることは不可能であるためだ。

では「個」とは何か?と問われると、これが少々難しい。
何故なら「個」という言葉の許容する範囲が、ここ語るべき内容に対して大きすぎるからに他ならない。
問題をより簡潔に、かつ限定的な方向へと導くために「個」についての若干の考察を行う。

ここで重要なのは「組織」という反語に近い言葉との関係性を論じることを前提とした、「個」に換わる新たな”言葉”を探る必要があるということだ。 求めているのはジダンやロナウドの技術力の絶対性を語る上での「個」ではなく、”組織に生かされる個人”と”個人を生かした組織”という既にそこに存在している概念について考察する上での「個」である。

例えば次のような文章で用いられている「個」は、今回論じようとしているものとかなり似通った意味を持っているために有力な代替候補だ。
「個が生きている」あるいは「個が死んでいる」
ここで言う「個性」を「長所と短所(の集合)」と割り切れば、 「個性が生きている(状態)」とは「長所が発揮されている(状態)」と言い換えることが可能である。 先のような理由で、ここで言う「個」は、先の引用を生かし「長所と短所(個性)の集合」という意味で用いることにする。

■歯車理論による個と組織とタスクの関係
サッカーでは個と組織の関係を表現するのに「歯車」がその例えとして用いられることが多い。
「選手は歯車と同じで一つ一つに個性があり無二の存在だが、しかしそれ一つだけでは何も出来ない。 お互いの凹凸がしっかりと噛み合い連動しながらも、各々が回転し動力を伝達することでようやく一定の仕事を成す事が出来る。」

実際、この考えは現実のチームをうまく表現している。
先の個の定義でも述べたように、選手というのは長所と短所の塊だ。 うまくいっているチームというのは選手の長所と短所が、互いに足りない部分を補い合って構成されている。 歯車に代表される機械的な動力伝達の構造が、個と全体との関係、連動性、タスクの分配など織り込んでいるため、 サッカーの特に組織やチームというものを表現するのには適した考え方なのだ。

しかしながら、やはり単なる歯車だけではサッカーの持つ幾ばくかの自由が抜け落ちているのも確かである。 厳密な規律の中でいかほどの自由がサッカーに与えられるべきなのかはよく議論の対象になる部分だが、 それについて新潟の反町監督が面白いことを述べている。
「『少なくとも私のサッカーでは99%が労働だよ。しかし、残りの1%は試合が終わった後には100にも200にもなっているはずだ。』 といつも選手には言っています」
現代のサッカーではチームをチームとして機能させるのに必要な仕事が各ポジションで多岐にわたっており、 旧き良きサッカーが持っていた自由さとか緩さといったものは、与えられた多くのタスクに飲み込まれようとしている。 反町監督の言葉はそれを明快に表しているのと同時に、そういったタスクの中で自由を発揮することの重要性を示している。

少なくとも現代のサッカーにおいてはタスクと自由は、ちょうど樹木の幹と枝と花のような関係になっているのだ。
チームの体裁を成すべきベーシックなタスクは幹にあたり、
多種多様な戦術的な色づけは八方伸びた枝葉にあたり、
ようやくその先の一瞬だけ咲くほんの小さな花、これが自由だ。

桜の木を思い浮かべるときに幹や枝を思い浮かべるものは少ないだろう。
しかし後になって思い浮かべるのはその試合で起きたほんの少しだけの、それも一瞬だけの華麗なプレーであるはずだ。 枝葉がなければ花も咲かない。しかし、幹がなければその枝さえつかない。 同様に、もはや自由はこれら全てのお膳立てがなければ成立しなくなっているのだ。
反町監督が表現したかったのは、つまりそういうことになるだろう。

■クーペルサッカーと「死んだ個」
不思議なのは、そもそも何故「個」を前提としたサッカーという競技において「組織」との問題が頻繁に槍玉に挙げられるのかという部分だ。
今でも時折言われる「組織は個を殺す」とはやはり本当のことなのだろうか?

「個が殺されたサッカー」と言われて皆が真っ先に思い浮かべるのは、おそらくクーペルであろう。
実際、個が生きてない例えにクーペルサッカーが挙げられることは多いのだが、 彼のサッカーを一言で表すならば、それは「組織守備からのカウンターサッカー」。 インテルで行っていたサッカーは個人の能力頼みの印象もあったが、それでもそれは攻撃に限った場合での話だ。 当時のインテルはよいチームとは言えなかったが、だがそこにはまた別のロジックも存在していたことを指摘しなければならない。

一般的に歯車が良く回っているチームでは、ゴムを張ったような、張り詰められたチームのバランスが全体に感じられるのに対して、 クーペルのそれではゴムが少し垂れている、バランスのテンションの低いサッカーが行われていた。 結局、クーペルのサッカーにそういったテンションが感じられないというのは、 守備に人数を裂き、且つポジションチェンジも効果的なもの以外の最小限にとどめた結果、 サッカー自体に多くの保険がかけてしまっているからに他ならない。 攻撃にはそれほど人数と時間をかけない変わりに、前線は個人能力を前面に押し出した局面からの打開ということになる。 インテルではもともと能力の高い選手がDFラインに並んでいることもあり、 保険付きの戦術に与えられたタスクというのが、本来選手がこなせるタスクの絶対値に近づくことが最後までなかった。 こうなると選手のチームバランスのテンション、身体的なテンション、精神的なテンションの張りが緩く、今ひとつ調子が上がらないということを繰り返していた。

こういったクーペルのサッカーに対して、よく歯車の回ったチームは保険があまりかけられていないとも言える。
保険がかけられていない、つまりテンション平均的に高い状態が保たれており、その分だけ強い力を発揮できるのだが、 しかしまた強く張っているからこそ、チームに一箇所亀裂が入るだけで、 まるで強く引っ張られたゴムが一気に千切れるようにチームは雪崩式に破綻していく。 クーペルは自身が行うサッカーでは危ういバランスのチームを作ることを嫌ったとも言えるだろう。

クーペルのサッカーは確かに本質的な意味での個性を生かしたサッカーを構築するタイプとは違っている。
まずクーペルは選手に100は求めていない。彼が求めるのは安定した力で85を出すこと。
砕いて言うならば、クーペルの理想の城は幾つかのパーツからなっており、 そのパーツ(歯車)としての役割を確実にこなしてくれる選手が彼のサッカーにはまず必要だった。

結果的にクーペルは自分の得意の戦術にステレオタイプに選手をカテゴライズし、 ポジションと役割を与えていくという作業を淡々とこなしていくメカニックなのだ。 そういったことが前提にあるために、例えばクーペルのチーム構築の速度は他の監督の追随を許さないほど圧倒的な速さで行われる。 選手の力を見る作業、見切った選手にタスクを振り分ける作業、チームの問題点を浮き彫りにする作業までが彼の中で完全に方法論化されている証拠とも言えるだろう。

クーペルが「個」を生かしていない印象があるとすれば、それはやはり彼の規定されたタスクの振り分け方のほうにある。 個を殺すことで組織を生かすというよりは、クーペルのそれは言ってみれば個を持った選手を前提としていないサッカーであると言える。 早い話、クーペルのサッカーを追求していけば、それは「比較的凡庸な選手たちのグッドチーム」が出来上がるのだ。 バレンシアのような中規模のクラブでの成功はそれの象徴であり、同じやり方で望んだインテルで成功を勝ち取ることが出来なかった理由もやはりそこにある。

インテルで問題だったのは、会長のモラッティが連れてくる選手がクーペルサッカーには個性が強すぎたために、 彼の望むタスクをうまく消化仕切れなかった部分にある。 クーペルが今ひとつインテルで成功を収められなかった原因をサッカーの質から判断すれば、 あまりフロント主導のビッククラブ向きでは無かったということが言える。 最後に一つ付け加えるならば、もし凡庸な監督がクーペルと同じようなサッカーを行おうと思えば、 それはウリエのリバプールのようなパフォーマンスの低下を招くに違いないのだが、 モラッティという多大なるハンディを背負いながらそうはならなかったというのが、 クーペル自身は非常に優秀な監督であるということの証拠でもある。

■自由と制約
イタリアのサッカーは7人で守って3人で攻めるようになって久しいが、 今現在もこの考え方はイタリアのサッカーの根幹にあるもので、一部のビッククラブを除いてこの伝統は脈々と受け継がれている。 この考え方の基本的なプロットは「7人が犠牲になることで、前線の3人を生かす」というものだが、 これは果たして個が生きているサッカーと言えるだろうか? 確かにこれならば前線の3人に限って言えば、必要最低限の守備を除く余計な負担が軽減されるだろう。 だが他の7人はどうなる?たった3人のために7人の自由が奪われることはモラルから言って許される行為と言えるのか?

自由と制限について、興味深いインタビューがある。
ACミランの監督であるアンチェロッティーは選手の能力と起用のバランスについてこう述べている。

「私は監督として、それぞれの選手をできる限り本来のポジション、すなわち最も力を発揮できるポジションでプレーさせようと心がけてきた。 しかし、監督にとってそれ以上に、というより最も重要なのは全体のバランスよく機能させて、 チームのポテンシャルを最大限に引き出すためのシステムと戦術を見出し、それをピッチで実現させることである。

理想を言えばピッチに立つ11人全員とポジションは一致しているのが望ましい。
しかし現実にはあるシステムを採用しようとすると、本来の選手がいないポジションがどうしても一つか二つある。 別のシステムを採用すれば別のところに穴ができる。そういうものなのだ。 結局本来とは異なるポジションへの適応を求めざるを得ない。コンバートはチーム全体の利益のためになされるものだ。 コンバートされている選手には、必然的にある種の犠牲を強いることになる。」


確かにACミランのピルロがあれだけ低い位置から攻撃の組み立てを行うには、支えとなるガットゥーゾがいなければ無理であろう。 現役時代にはミランの主力として活躍した経歴を持ち、選手の個性を重視したチームを作るそのアンチェロッティーにして 「誰かの自由のためには、他の誰かの自由(能力)に制限を設ける」と言わしめる。 個性を生かしつつも、やはりそこには意図的な制限は必須と言える。

■「生かす」とは何か?
クーペルは特殊な例として、チームを組織するにはやはり選手の個性をある程度生かすことを前提として、 チームをコーディネートするのがオーソドックスな方法だ。 しかし、一方でこの考えにも簡単に鵜呑みには出来ない部分が多く、先のアンチェロッティーなどともつながる問題がここにある。 つまり「選手の個性を生かせばチームは強くなる」とする、いささか喉越しのよすぎる前提に対して疑問が沸いてくのだ。

例えば鹿島の小笠原を例に挙げよう。
「彼の能力が最も発揮されるのはどのポジションか?」
と問われれば、10人が10人トップ下だと答えるだろう。
今度は質問を変えて、
「彼が日本代表に入ったときにはどのポジションに配置するのがよいか?」
と問うた場合には少々答えに困るのではないだろうか?

小笠原がトップ下で最もその能力を発揮する選手であることは疑いようのないことではあるのだが、 属するカテゴリーがレベルの高いMFが揃う日本代表となると相対的な意味で実力が低く評価されてしまうのだ。 彼は日本代表のトップ下では中田、中村、小野らに続く4ないしは5番手の選手となってしまう。 確かに彼の能力を完全に生かそうと思えばトップ下で起用するのがベストだろう。 だが彼が入ることでチームの力が落ちてしまうのはそれこそ本末転倒だ。

そう考えると先に挙げた前提条件は非常に微妙なものになってくる。
小笠原の守備能力とルックアップの良さを考えた場合、ボランチ近くでプレーさせるという選択肢もある。 この場合だと小笠原の個性の”一部”は発揮されるだろうが、トップ下と同様のすばらしいパフォーマンスであるとは言い難いだろう。 例えば、これはトルシエ体制時の日本代表で果たした中村の役割にも同様のことが言えた。

中村のパスの精度と展開力を生かすために左サイドに配置したことは彼の個性を完全に生かしているとは言えない。 しかしトップ下の守備と特にボールを受けるためにマーカーをはずす動きを完璧にこなせる中田を中央に配した方が チームの安定感が高いと判断してのことだった。 先のアンチェロッティーがインタビューで指摘していたのはまさにこの点についてだった。

個性を持った選手がいなければどんな名将もチームを作ることはできない。
だがどんなに優れたサッカー選手でも一人でできることは限られているし、 その個性を引き出すのとチームとしての体裁を整え、コーディネートするのとはまた別のことであるのだ。 必要最低限の攻撃力と守備力をチームに備えさせるためには、どうしても各選手、各ポジションにタスクを負わせる必要がある。 タスクを負わせる以上、自由にばかりさせるわけにもいかないのだ。 その結果、各々の選手の個性に制限を設ける結果にもなるだろう。 そう考えると「個性を生かせばチームは強くなる」ということは一概には言えなくなってくる。

■自由の制限とタスクの分配
サッカーで有名な言葉に次のようなものがある。
「サッカーは一人で点をとることは出来るが、一人で守ることは絶対に不可能だ」
組織とタスクとの関係を述べる場合、その内の70%は守備のことについて述べていると言っていいだろう。 つまり自由に制限を設ける主な理由は守備を安定させてチームのバランスとろうと考慮した結果に過ぎない。 先の言葉にもあるように、サッカーにおいて守備は多人数で数的有利を作りだし、相手の揺さぶりに耐えなければならない。 そのためには当然ながら役割分担が必要となってくるだろう。

ポジションとタスクは統計的な意味でも幾何学的な意味でも密接に結びついており、これは否定のしようのないところだ。 守備で相手をいなし、そこからボールを奪っての攻撃に移るためには、ベーシックなフォーメーションと基本的なタスクを分配することが必然となる。

守備時のベーシックフォーメーションが如何に重要なものであるかは次のような例からもわかる。
かつてのクラシカルなトップ下のファンタジスタが衰退したのは、よく言われるようなプレッシングの一般化だけが原因ではない。 創造性あふれるプレーをし、尚且つ決定的なプレーを行う彼らには常にマーカーがついていた。 マーカーをはずし、味方のボールを引き出し、攻撃を停滞させないためにはどうしても自由なポジショニングが求められた。 だがそれは逆に言えば、相手が攻撃に移った瞬間から今度は自分がつかなければならない選手のマークまでをも自由にさせてしまうことになるのだ。 いわばクラシカルなファンタジスタのプレースタイル自体が、現代のサッカーにおける戦術に当てはまると諸刃の剣とならざるを得ないのである。

他にも守備の布陣とタスクの関係の重要性について、次のようなインタビューがある。
「4-3-3というシステムだけで今シーズンを終えたい。幾つものシステムを使い分けるのはよくない。システムを一つにすることで、 選手に対する指示や要求はシンプルで明確になる。僕の指示は非常に明快だから、それに対して選手に責任を負わせることができる。 僕らは4-4-2もできるが、それは本当にとてもレアなケースだ。」

これは30代にしてオランダRBCの監督を務めるマースカントのインタビューだが、 彼が言うようにベーシックなフォーメーションが局面での対応に代表される味方同士の対応の仕方や連携などを含んでいるため、 それは組織戦術構築の根幹をなすものとして位置づけることが出来る。 故に監督といえども一朝一夕に根拠なくチームのシステムを変えることは許されない。 特に守備に関わるチーム後方のバックス陣の人数を変える、具体的に言うと3バックや4バックを併用することは ワールドカップなど一発勝負のトーナメント戦において戦略的に用いることを除けば、好ましいこととは言いにくいのだ。 特に例にあげたRBCのような持ち駒という意味で戦力的に不利な中堅以下のクラブでは、それはより一層難しくなる。

現在、田島氏を中心に日本技術委員会が局面に合わせてシステム・戦術を柔軟に切り替えられることを目指す 「タクティカル・フレキシビリティー」を日本の課題として強化方針を既に打ち出しているが、 この点においてこれが達成不可能なものを課題としている可能性を十二分に秘めているのがわかる。

ベーシックなフォーメーションには伝統的な、例えばブラジルのダブルボランチは伝統的に潰し屋を二人並べているのと同じように、 ある程度まで有益な役割分担の割合というのが既に決まっている。 WBは上下動を激しく繰り返すし、ボランチは中盤底のスペースを常に埋めている。FWとCBはゴール前に張り付いて得点の気配を伺う。 本来11人が自由に動けるサッカーにおいて、このポジションの選手はこうしなければならないという規定はルール上でも一切ないにもかかわらず、 我々がポジションごとのプレーイメージを浮かべること自体が、 そういう戦術の基本的な学習(あるいは固定概念)を我々が既に済ましている証拠とも言える。

しかしこれだけではどのチームも似たようなサッカーばかりになってしまう。
ではサッカーのチームに決定的な多様性を生み出す要因は何か?
組織戦術とタスクの関係をより深く知るには、もう少し考察を続ける必要がある。

■キーワードは「タスクの再分配」
良いチームというのは、他とは違うチームとしての多くの特徴を備えている。 その特徴を形作るのはやはり選手の個性であることは間違いない。 しかし、チームをチームとして成り立たせる必要最低限のタスクはどうしても個々の選手が分担して負っている必要がある。

真にチームが多様性を獲得するには、先のような固定的概念を幾分か振り払う必要性がある。
ボランチには高い守備能力と対人能力を必要とするという前提条件から、本来課せられた、 つまり分配されたデフォルトの設定のタスクを別のポジションの別の選手に割り振るのだ。 そのポジションがこなすべき最低限のタスクというのは先のフォーメーションの関係上、ある程度までは規定されている。 ポイントとなるのはポジションごとのタスクの負荷を調整すること、つまり「タスクの再分配」だ。
この再分配こそが個と組織をつなぐキーワードとなる。

上記のACミランのピルロとガットゥーゾの関係は、それぞれが攻守に傑出した能力を持つ選手同士の特殊なタスク分配の例だが、 通常のチームにおいても、例えばダブルボランチの前後の意識にもこういったタスクの再分配の例が頻繁に見られる。 要は全体のバランスを取れていればそれで構わないのであれば、ポジションとタスクの関係をいつまでも固定的なものにしておく理由などないのだ。

しかし、このタスクの再分配には十分注意が必要だ。
最初に気をつけなければならないのは、選手の能力を生かすために良かれと思って行った極端なタスクの再分配は チームに綻びをもたらす場合が多いということだ。 例えば非常に高い突破力を持つウィングの攻撃力を生かそうとするあまり守備のタスクを0にまで落とし込むと 前線からのチェックがなくなり、様々な理由から組織戦術としてのロジックに欠陥を生じる。 その多くはチームのディフェンスに数的不利な状況を強いることになる。 こうなるとDFがネスタであろうがマルディーニであろうが、アウトナンバーでは攻撃の防ぎ様がなくなる。 ピルロとガットゥーゾの例も本質的にはかなり極端で、なお且つレアなタスクの割り振り方を行っているのだが、 二人の能力がそれに埋没することないほど高いものであったことが幸いしたのと、監督の高い眼力がうかがえる。

次に気をつけなければならないのは、多くの選手は守備をしたがらない上に攻撃が大好きということだ。 今の日本代表のようにその分配を選手の感覚のみで判断させるのは易きにつく人間の特性を考えた場合やはり問題が多い。 タスクの再分配はチーム作りの本質でもあるため、やはり監督が行うべき類のものである。 何故ならそれ自体が監督のコンセプトを象徴しており、また分配のパランスセンスにもチーム力は大きく左右されてくる。 先のアンチェロッティーが言った「全員を生かすわけには行かない」という言葉にはこういった意味も含まれている。 今度は全員の能力を最大限発揮させようと不安定なタスクの分配を行うと、それこそバランスを欠いたチームができることは必至だからだ。

■多様性を作り出す自由度の高さ
もしサッカーが局面の連続の継ぎはぎだけで構成されていたならば、こういったタスクの再分配は起こらない。 それはひとえにサッカーというものが局面だけではなく、全体としての整合性も非常に重要であるということを示している。 極端な話、DFがディフェンスをしなくとも、FWが得点を取らなくても、全員が与えられた役割をこなし勝ちさえすれば チームとしての体裁は備えているわけなのだからそれで十分であるとも言える。 局面だけではない、つまり「ここの場面では必ずこうしなければならない」ではなく、 「最終的にこうなれば良い」という工夫できる余地が十二分にあるのがサッカーの素晴らしいところで、 故にこれだけの多様性をもたらした原因であると考えられる。

ポジションごとのベーシックなタスクを確認。
それを選手の適正を正確に見極めタスクを再分配する。
その後、監督は全体としてのバランスやつじつまを合わせる微調整を行うというのがチーム構築の基本的な作業と言える。 もちろんここで上げた各項目は、「一度行ってはまた返る」を何度も何度も繰り返すものだし、 その間に監督の構想にあるバランスシートも少しずつ、確実に変化していくものなのだ。

組織は個を縛るものというロジックは現代のサッカーには当てはまらない。
選手の個性や自由はチームという組織をベースとしながら相互補完的関係を築きつつあることに、今更疑問を挟む余地はないのだ。 強いて挙げるとするならば、今を戦う選手達に新たに求められるのは「与えられたタスクに埋没することなく、それでもなお個性を発揮させる」という全く新しい特性と言えるのではないだろうか。

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