■「ジーコ解任へのアプローチ」

何はともあれ、まずはアジアカップ優勝の祝辞から述べることにしよう。
幾多の苦難にも負けず、代表の選手達は本当に素晴らしい戦いぶりを見せてくれた。
心からおめでとう、何よりありがとうといいたい気持ちだ。

一段落ついたところで、やはりかの問題について触れなければならないだろう。
彼自身のことについてはさまざまな媒体や論客を通じての鋭い評論にあふれているので触れることはやめにするとして、 ここまでハッキリしている部分をまずは共通理解としておこうと思う。

■ジーコ監督に関する共通認識
(1)トルシエと比較される点

今思えば、トルシエのチーム作りへのアプローチは相当的確だったのかもしれない。
キーワードは”交換可能”つまり”再現性・安定性の追求”であり、まずチームがあった上で選手は駒としての機能を有している必要があった。 対するジーコのキーワードは”交換不可”、それはつまり”可能性・限界性の追及”と言い換えることが出来るだろう。 この場合は選手の特性がチームの形を作り出す、言ってみればチームそのものであるといえるだろう。 選手が変わることは即ちチームが変わることを意味するため、人が入れ替われば戦い方まで変化してしまう。

確かにジーコは先発メンバーを固定するが、これにはどういう意味があるのか?
本質的に、監督という立場になれば誰でも先発は固定したがるものだ。それはそうだろう。 いつもベストのメンバーで全ての試合に臨みたいと考えるのは至極当たり前の考え方だ。 問題なのはやりたいことをやっていればそれでいいのかということになる。

トルシエのいわゆる”テスト”は非常に有名だ。
前半と後半のメンバーが同じことすら少なく、折角機能したスタメンも次の試合にはまた変わってしまっている。 ではそれは何のためか?トルシエがメンバーを固定できないだけか?それとも単に選手交代マニアなのか? どれもちがうだろう。先ほど指摘したようにベストメンバーで全ての試合に臨みたいのはどの監督も同じだ。 だとすればこういった選手交代は何らかの意図があってわざと行われているものだということがわかる。

ではそれは何か?トルシエは何を狙っていた?

結局のところ、トルシエはどのような状況になろうともワールドカップで結果を残すことに集中していたのだろう。 トルシエ政権前期ではそれはチーム戦術を召集した全ての選手に植え付けることを目的としたものだった。 そして政権後期ではオプションの模索とチーム力の安定性、つまりアクシデントに対する備えの準備が主だった。 トルシエが危惧した通り、大会前には中村と高原などの中心選手がチームを離脱してしまったが、何とかその穴をカバーすることが出来た。

対して先発を固定するジーコの場合、そういったことは全く考慮されていないことがわかる。 計画的に選手を入れ替え、時間をかけて多くの選手をチームになじませるということはしない。 あくまで力のある選手を起用し、ベストメンバーによるベストチームの成熟を目指す。

アクシデントに対する対応は、残念ながらその場限りであると言わざるを得ない。 レギュラーDFが怪我で代表を離脱して追加召集されたDFが、なぜか次の試合の先発メンバーに名前を連ねていることなどざらだ。 これはつまりこの選手の控えは今のところあの選手とは一切、全く、毛の先ほども考えていないことになる。 つまりベストメンバー以外で戦うことなど考えられていないことを如実に物語っている。

これではスペアタイヤも積まずに高速道路を全力で走り抜けるようなものだ。

(2)チームそのものを構築する能力の欠如

トルシエはベンゲルと同じようにクレールフォンテーヌの出身であるから、彼が現代的なサッカーにおけるチーム構築のメソッドを持っているのは当たり前。 世界中で活躍するフランス人監督を見てもそれが正攻法のやり方であることがわかるし、 トルシエとジーコのアプローチ方法の違いについて比較することは、ジーコのやり方がいかに独創的なやり方でチーム作りに望んでいるかを我々に教えてくれる。

「左利きの選手はリズムが独特だからDFが止めにくい」

ジーコがよく使う言葉だ。
ひょっとするとこれを聞いて嫌な予感がした方もいるだろう。
ジーコは明らかにFWの選考基準に、その選手が左利きであるかどうかという項目を用意しているようなのだ。 本来テクニックを重視するはずのジーコが、何故鈴木を使い続けるのか? もちろん呼ばれた選手はそんなこととは関係なく全力でプレーするだろうし、それは他のどの選手とも変わらない。

”左利き”の例に限らず、サッカーでは論理的な説明は難しいが、経験上それが有効なものであるようなほんのちょっとした技術や知識を特にスモールティップスなどというらしい。文字通り”小さな事柄”と呼ばれるスモールティップスの重要性は、ディテールが勝敗を決めるどのスポーツにおいても変わらない。 「PKではGKの左の足元を狙え」「角度のないシュートはニアの上を狙え」などなど他の競技と同じように、根拠のあるものからほとんど迷信めいたものまで実にさまざまなティップスが存在する。

そういったことは確かに重要なのだ。そういった教訓めいた言葉には先人達の知識と経験が短い言葉に凝縮されているからだ。 そうした教訓こそ、拮抗した場面で決定的な威力を発揮してくれるはずだ。しかし、スモールティップスはあくまでスモールティップス。 それをどれほど集めところで現代に見られる正攻法のチーム構築術を上回ることは決してないのだ。

だがジーコはあくまで小さなディテールにこだわり続ける。
例えば、欧州遠征のアイスランド戦でこんなことがあった。
ご存知のように日本代表が3バックで臨んだこの試合は、左から中澤・宮本・坪井というDFの並びであった。 この日は中澤の攻め上がりが非常に効果的で、三都主とうまく連動してサイドから有効な組み立てを行っていた。 そうすると突然ジーコが立ち上がって何やら指示を出し始めている。 ピッチリポートによると「ジーコが右サイドの坪井にサイドを上がって攻撃するように指示している」というものだった。 その直後、坪井はそれまで不得意なために決して見せることのなかった右サイドの攻め上がりや攻撃の基点となる動きを繰り返すようになる。

このシーンには2つの大きな問題がある。
一つ目は中澤の攻め上がりは彼の独断であり、ジーコの指示ではなかったこと。
二つ目はジーコの無節操で無策なチーム方針だ。

3バックはただでさえサイドの裏を突かれ易いシステムだ。
その為。DFがサイドを上がって攻撃に参加することは効果的である一方で、それなりのリスクを伴うものだ。
だから通常のチームはこういった行動に保険をかける。

いつ上がるのか?
上がったスペースを誰がカバーしていくのか?
上がった場合の選手の使い方・使われ方はどうするか?
その際、周囲の選手はどう連動して動くべきか?
最終的なフィニッシュへの持ち込み方は?

中澤がクラブチームでそういった動きに慣れていたことがあったにせよ、それを見てもジーコはチーム戦術への危機感を覚えるどころか 本来は攻め上がりの下手な部類に入る逆サイドの坪井にまで即興でそれを求めるというのは、それがその試合でいかに効果的なものであったとしても あまりにもリスキーな行為ではないだろうか?

こういったことから、やはりジーコには戦術やコンセプトやチームの構築のメソッドもそれを身に付ける時間もセンスもないし、 ディテールにこだわり局面ばかりが先行する継ぎはぎだらけのサッカーとしか考えられないのだろう。

(3)チームマネージメント能力の欠如

連日30度を超える猛暑の中、中二日程度の休息しか与えられていなかったアジアカップ決勝戦までの道のりの間、ついに先発メンバーが変わることはなかった。 それどころか決勝の行われた北京での地元中国との試合など、再三疲弊しラフタックルで地に伏す選手達を横目に、3つある交代枠の1つも使われることはなかった。

ジーコに関して言えば、こういった件は今回に始まったことではない。 試合を重ねるたびに明らかに低下していく選手のコンディション。 そして予想されうる帰国直後のコンデョション不足が原因によるリーグ戦の欠場。 既に久保の一件で横浜の岡田監督が不快感を露にしているように、おそらく選手達の所属するチーム関係者はこういったジーコ以下代表スタッフ達の無頓着で無慈悲な行為を決して許さないだろう。

アーセナルのベンゲル監督が「代表に招集される選手達の高い給料を払っているのはクラブだ」といったのは有名な話だろう。しかしこれは全くその通りである。 彼らは自身の仲間を守るため・チームを守るため・投資資金を無駄にしないために、代表スタッフは代表チームを勝たせるのと同じくらいに彼らの体調を整えることに神経をすり減らす必要があるはずだ。代表がいくら選手自身のキャリアアップの大切なステップであるために召集を断ることが難しいこととはいえ、ものには限界というものがある。手塩にかけた選手が猛暑の戦いの中、クラブのスタッフや選手のご両親達の全く手の届かないところでゆっくりと確実に壊されていくという感覚がどれほど歯がゆいものかは想像に難くないではないか。自分の息子である選手達、あるいは息子のように慕うクラブのサポーターにとってみれば、これは反逆的ですらある。

これだけ頑張ってきた選手達に勝利の喜びを与えてあげたいと思う一方、これ以上この異常な状況下で試合を行わせることで選手生命に関わる怪我をしないだろうか、いやそれどころか本当に命に関わる事態になったりはしないかと考えてしまう。試合中に心臓が停止するなどという事件を二度と引き起こしてはいけないのだ。

(4)言行不一致

ジーコは言ったこととやっていることに整合性が無い。
反論は受け付けない、というより不可能であろう。ここであえて挙げるまでもなく、そのことは既にさまざまなところで指摘されている。 「ウソつきは泥棒の始まり」といって「ウソ=絶対悪」と考えるのは日本だけで、むしろブラジル人は好んでウソをつく傾向がある。

誠実だが面白みにかける人間より、上手なウソや人を不快にさせないウソ、相手を喜ばせるウソのつける人間が好まれるらしい。 もっともこういった一種の決めつけが、世界中の数億人のブラジル人達と話した経験からくるわけでも、ましてや”ブラジル人の性格とその傾向”などという研究をした成果でもないことではあるのだが、しかしここ一年ほど彼らの不思議な文化について興味を持って書物などをあさる私が呼んだどの本にも共通して書かれているブラジル感はみな同じようなもので、およそそれは以下のようにまとめられる。

総じて見られる傾向として、ブラジル人はおおらかで気さくでコミュニケーション能力があるが、いい加減で嘘つきでその場限りの対応をする。 面白いのは、だからブラジルの銀行員には日系人が多く、仮に婚約相手が日系人であった場合には相手方の親は非常に喜ぶというのは冗談ではないらしい。

やや話が反れたが、日本を訪れる一部のブラジル人選手達の時間という概念へのいい加減さやウソに対する敷居の低さは確かにこういった証言を裏付けるに十分なものがある。つまりジーコに限らずブラジル人にウソに対する後ろめたさはどうもないらしいということだ。 ということはいくら記者会見での監督の発言を分析しようが、彼らの言葉を引用して弁護を試みようが、そんなことに対した意味はないのだと彼ら自身が言っている。

■今だからわかるジーコの真意
ジーコが監督に就任したのが2002年の9月だっただろうか?
丸2年が経過したことで、我々も彼について多くのことを学習する機会を得ている。 さまざまな事象を垣間見ることになったのだが、ひとつ気が付いたことがあるとすれば、それはジーコには実は隠れた真意があるのではないのではないだろうかということだ。 先に述べたように監督就任以降の責任が発生するようになってからのジーコの発言はあまり参考にならない。 ジーコは何を考え、何をしたのかはいくつかの重要な出来事を踏まえて順を追って見ていくことにしよう。

トルシエ政権時にあった日本代表に対するジーコの特徴的な発言の要旨は以下の二つ。
「私には3バックの良さがわからない(4バックの方がいいのではないか?)」
「(要約)テクニックのある選手を使うべき、10番は共存できる」
その後、ジーコ自身が日本代表監督に就任すると正にこの通りのことを行う。

ジーコが何故日本などという弱小国の監督に就任したのか言えば、まずはトルシエの中村や小野を同時起用しないことへの不満が大きな要因になっている。 「俺ならばこうするのに・・・」ジーコ自身が4バックと才能ある10番達が共存するサッカーを見たがっていたことと、そういったファンタスティックで創造性あふれるサッカーを復刻させたいという思いが強くあったのは間違いないだろう。しかしながらその思いは見事に打ち砕かれる。

日本で行われたアルゼンチン戦での大敗をきっかけに、それまで4バックを勤めていた服部・秋田・森岡・名良橋が総入れ替えし、以降代表のレギュラーになることはなくなる。 「おかしい。形は間違っていないはずなのに、何かうまくいかない。とりあえず守備の機能しないDFを入れ替えよう」 新たに就任した三都主・宮本・坪井・山田のバックラインは時折いくつかのミスは犯したものの、徐々に安定の兆しを見せる。 もっとも、クラブとは違うポジションでは起用しないというジーコの発言は服部と三都主の左SBへの起用で見事に覆されているのだが、それについては言及しないことにしよう。私の記憶が正しければ、三都主がSBで起用されたのはデビューした年のたった数試合だけだったはずだ。

このころから徐々に大きなってきていたのが「決定力不足」と「国内組・海外組」の問題だ。
コンフェデレーションズカップとそれに続く東アジア選手権への流れの中で、ジーコは既にメンバー固定の方針を打ち出している。 先発の固定、4バックの安定、10番の共存とそれがもとらすイマジネーション溢れるサッカーの復権。 FWのシュートが決まらなければ全員にシュート練習させるし、クロスが決まらなければクロスをあげる練習を執拗に繰り返した。 しかしチームは依然として機能性を見せることはない。 さすがに内容の良し悪しはわかるジーコだからこそ、そういった状態は歯がゆかった。

次に決定的なことが起きたのはワールドカップ一次予選のオマーン戦だった。
日本の4-4-2を研究しつくした対戦相手の戦術、その後訪れる選手の体調不良による離脱も相まって ジーコはついに鉄の4バックの原則を崩し3-5-2の採用に踏み切る。 もっとも、最初は4バックが組めない急場をしのぐための暫定的なものであっただろうが、皮肉にも永く慣れ親しんだその形で代表は機能し出すことになる。 このときのジーコもやはり「システムは関係ない」という常套句を言っているが、本当にそう思っているなどとは誰も思ってはいなかった。

こうして見ると、ジーコジャパンには大別して3つの体制の変化の状態を経ている。
一つ目は、ジーコの願望がそのまま形となったジーコ初期セットを中心とした第一期。
二つ目は、ジーコが鹿島のベテランを切って4バックを入れ替え、念願の黄金の中盤の熟成に入る第二期。
三つ目は、ジーコが始めて自分の信念を曲げ3-5-2を採用し、現実のサッカーとの折り合いをつけている現在までの第三期。

こういう言い方はフェアではないかもしれないが、ジーコジャパンの初戴冠となったキリンカップとアジアカップのビックタイトルは結局は全て妥協の産物ということができるだろう。 もう既にお気づきかと思うが、ジーコにはその初心を既に完全に見失ってしまっている。 イマジネーションのサッカーへの渇望は影を潜め、堅い守備とセットプレーでしぶとく勝ち上がる精神力のみが前面に出た面白みにかけるチームがそこにあるだけだ。 最近、ジーコは「2006年のドイツ大会が終われば、二度と監督をすることはない」と言っているがこれだけはおそらく正直な発言だろう。 ジーコの最初の思いと、それを行わせる現実の困難さと状況を守るだけのために用意された妥協につぐ妥協は、彼の予想外の出来事であったろう。 「私は何をしたかった?」「私を何のために監督をしている?」目標を見失っているであろう今のジーコはおそらく、監督業に対して著しくモチベーションを低下させていることだろう。 今彼を突き動かす原動力は日本サッカーへの愛着と自分を批判するものたちへの反発心あるいはプライドの堅守、それだけだ。

セルジオ越後氏が指摘するように「もし負けてしまえば内容を問われてしまう。ジーコはそれを避けるためにひたすら勝ち続けるしかない」という状況にジーコ監督は追い込まれてしまっている。しかしこのことが、悲しいことに”悪魔のサイクル”を生み出してしまっているのだ。

セルジオ氏が言うように、どんなメンバーであろうとも内容が一向に改善されない今のジーコジャパンにあって、結果を出し続けることが解任を避ける唯一の方法だ。 一方でこういったチームでは逆にメンバーを入れ替えることはリスクがどうしても高まる。従って、ジーコは怪我気味であっても得点力溢れるFWを出場させたりと、消極的な意味でメンバーを固定せざるを得ないのだ。皮肉なことにジーコの置かれているこの特殊な状況が、彼の立場を更に悪い方向へと導いてしまっている。

■大人であるということ
基本的にコンフェデレーションズカップはさほど結果が重要な大会ではないとは思う。 世界的な国際大会の場合、力が拮抗しているためにその結果は時に水物だ。 もちろんワールドカップもそういった国際大会に含まれるのだから、我々は4年もかけたこの大会を大きな徒労で終えることになる可能性もあるわけだ。

だがアジアカップや東アジア選手権だけは別だ。
日本はアジアトップリーグであるJリーグを抱える国として、現アジア王者としての圧倒的な国力を内容とともに見せ付ける必要がある。 今回の結果はよしとしても、サッカーそのもの内容とそれに伴うマネージメントの問題は、例えアジアカップを制していてもジーコを解任するのに十分すぎる理由になる。 にもかかわらず、ジーコが解任されることはおそらくないのだろう。

なぜか?なぜジーコはこれだけの失態を見せながら解任に至らないのか?
例えば、もしジーコと同じことをトルシエがしていたら彼の首は二年間も持っただろうか?
これが親愛なるアーセン・ベンゲルならどうか?
マルチェロ・リッピならどうか?ミランのアンチェロッティでも、ボカのビアンキでもいい。
とにかく他の監督がもし日本代表の監督であって、今のジーコジャパンと同じような結果・内容・行為を繰り返していた場合、彼らの首は二年も持っているか?

考えるまでもない。全員とうの昔に首になっている。間違いない。
あなたも私も含め、結局ジーコが好きなのだ。
どうしても彼に甘くなってしまうのは、彼の日本サッカーへの多大なる貢献を知っているからだ。

要は、ジーコが解任されない一番の理由は、”彼がジーコであるから”という非常にアイロニカルな結論に達してしまう。 そもそも彼の就任の経緯からして、監督実質未経験者にまかせるというアンロジカルな行為からことは始まっているのだ。 これまでどうも違和感があるのは、ジーコの就任から今の今まで全ての行動に論理性が一貫して欠如しているからだ。 日本チームのパフォーマンスはそういった論理的でない人事がそのまま強化の失敗に反映されているといっても過言ではない。 逆に言ってしまえば、ロジックでない力で起こした二年前の突然の就任劇を解決するには、同様にロジックではない力によって解決するしかない。 なぜなら本来は論理的に考えれば、先ほども指摘したように解任されてしかるべきだからだ。

『技術委員会が監督候補を推薦し、理事会がその中から適任者を承認するという経過は、今までも今後も変わりません。 ただし、誰が主導権を握るかということにおいては、会長は技術委員会が選んだ人物のことを詳しく知らないままただ承認するというものではなく、 会長自らの判断で人物を見て、信頼した上で承認するということが大切だと思います』

これは川渕会長の代表監督選任時の発言だが、非常にわかりにくいので要約すると以下のようになる。
『技術委員会の監督リストから選ぶのは変わらないが、最終的に決定権があるのは会長であり、よく知らないリストの人物の中から無理をして選ぶのは避けたい。 自分の知っている人の中から人柄を考慮して、信頼できる人物を選ぶのも会長と監督の信頼関係を築くのには大切だ』

もしくは

『リストはあくまで参考程度に考えており、最終的には自分の知っている人の中から選ぶことになる』
といったところだろうか?

なぜ”技術委員会リスト < 自分の知り合いのリスト”になるのか疑問ではあるが、会長の言うことも一理ある。 何せ監督と協会の不協和音が前任者の仕事に大きく影響を与えていたことが確かなので、ことを穏便に図れる監督であればそれに越したことはない。 これを俗にいう”独断人事”というのだが、同時に川渕会長は「責任は取らない」という自分の立場を明確にとっており、この問題が一定の結論に達するには 相当な血が流れることは必死だろう。

単刀直入に言えば独断で決めたのは、それを解決するのもまた独断以外にありえないということだ。 そして国民は”ジーコだけでもクビにしたい”ならば、次のような二者択一を川渕会長に迫る必要がある。

「ジーコを解任させなければ、あなたが辞任しろ。あなたが協会に残りたければ、ジーコを解任しろ。」
こういった意見を不満に思うかもしれないが、川渕会長が動けないのはひとえに「ジーコを首にすれば責任を問われて自分まで首になる」という、臆病者の論理から来ている。 つまり今現在の川渕会長は代表(国民)と自分自身とジーコの間で完全に三竦みの状態になっているのだ。 だから一方で川渕の責任を不問にすれば、ジーコはいつでも首にできることになる。

これまでも再三指摘しているように、問題の本質は我々の思いとは全く別のところに存在している。 我々が”ジーコ問題”と認識していた諸問題は、元を正せば最終的に”川渕問題”に帰結しているといえる。 ジーコ問題を解決したければ、川渕会長に対して”解任”と”責任”のカードをどう使わせるかにかかっている。 もちろん独断の人事と代表のパフォーマンスに対する責任を問うのが、本来の筋であることは百も承知している。 だが選手やファンがあまりに我慢強い大人であるのに対し、当の本人達がどこまでも子供であるという事実は変わらない。 子供に真剣になって責任を問いただしても仕方がないし、それでは現実は何の進歩もしない。 今こそ、ファンは大人の対応を見せるべきだろう。

そもそもなぜジーコなのか?
我々が当初、彼に期待したことは何だったのか?
この程度のことなど、普通の監督にだって出来たことではないか?
こんな異常な状態のまま、ジーコを監督にすえ続けるメリットなど存在するのか?

一年以上前にも、これと同じことを言った。
だがしかしもう一度だけ言わせてもらうならば、ジーコを一分一秒でもはやく解任することが、日本にとって最も優れた戦略であるという考えは変わらない。

その為に、あくまで現実的な解決策として、川渕会長の責任を一切問はないことでジーコの解任を促す妥協案を提案するべきだと思う。

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