本当の魔術師

■本名 : Bora Milutinovic(ボラ・ミルティノビッチ)
生没年 : 1944年9月7日〜
出身国 : セルビア・モンテネグロ(旧ユーゴスラビア)
国 籍 : セルビア、メキシコ

■現役時代の経歴 :
19-- : ベオグラード遊撃隊クラブ(ユース)
19-- : パルチザン・ベオグラード
19-- : モナコ(フランス)
19-- : ニース(フランス)
19-- : ローエン(フランス)
19-- : FC WENTETUER(スイス)
1972-77 : ウニベルシダード・アウトノマ(メキシコ)

■監督時代の経歴
1977-81 : ウニベルシダード・アウトノマ(メキシコ)
1983-86 : メキシコ代表
1987 : サン・ロレンゾ(アルゼンチン)
1987 : ウディネーゼ(イタリア)
1990 : コスタリカ代表
1991-95 : アメリカ代表
1995-97 : メキシコ代表
1998 : ナイジェリア代表
1998-99 : メトロ・スターズ(アメリカ)
1999 : ペルー代表
2000-02 : 中国代表
2003- : ホンジュラス代表

▽主なタイトルと成績
<ウニベルシダード・アウトノマ>
 メキシコリーグ優勝
 コンカカフカップ優勝
 インターアメリカカップ優勝
<メキシコ代表>
 1986 : ワールドカップ 決勝T進出
 1996 : ゴールドカップ優勝
 1997 : U.S.カップ優勝
<コスタリカ>
 1990 : ワールドカップ出場(決勝T進出)
<アメリカ代表>
 1994 : ワールドカップ出場(決勝T進出)
<ナイジェリア代表>
 1998 : ワールドカップ出場(決勝T進出)
<中国代表>
 2002 : ワールドカップ初出場
<国際Aマッチ>
 270試合以上

■地元メキシコ躍進の立役者
ボラ・ミルティノビッチは旧ユーゴスラビアのバジナ・ベスタというベオグラードから180kmほど離れた町に生まれる。

ミルティノビッチ家は代々のサッカー一家。
ミロス・ミルティノビッチは1950年代にワールドカップにも出場したユーゴ代表選手で、後の1986年にはユーゴ代表監督にもなった名選手である。 ミロスの弟であったボラもまた、サッカー選手としてバルチザン・ベオグラードでプレーし、ユース代表やオリンピックのユーゴスラビア代表に選ばれた。 その後、ボラは活動の場をフランスやスイスに移し、モナコやニースなど幾つかのクラブに在籍。 メキシコのウニベルシダード・アウトノマ(UNAM)で18か月間プレーして1977年に現役を退いている。

ボラの監督としての特異なキャリアがスタートしたのは、同年にUNAMの監督として復帰してからだった。 その手腕は就任当初から注目を集め、2年後にはチームをリーグ初優勝へ導くなど、監督として実績を着実に積み上げていく。

当時から、メキシコリーグは南米の有力選手が多数在籍するなど、レベルが非常に高いことで知られていた。 一方で人々は、リーグとは対照的なメキシコ代表チームの低調なパフォーマンスを悩みの種としていたのである。 ワールドカップ1982年大会の北中米予選では、本来格下のホンジュラスやエルサルバドルに負けるなど不本意な成績に終始しており、 好んで代表監督になろうとするものはいなかった。 そんな状況の中、代表監督に白羽の矢が立ったのが、当時国内リーグで好成績をあげるユーゴスラビア人監督ボラ・ミルティノビッチである。 ボラはその実績はもとより、メキシコでの生活が長く、メキシコ人の妻を持ち、それ故にメキシカンの環境やメンタリティーをよく知っているというのが選考の理由だった。

1986年のワールドカップ開催国がメキシコで開催されることが決まった1983年から、ボラはメキシコのサッカー協会と協力して長期のトレーニング計画をスタートさせる。 大会の1年前のメキシコリーグ85-86シーズンは代表選手たちをクラブと完全に切り離すことを行い、1985年6月15日からメキシコ代表だけでの合同練習を行なった。 メキシコ代表はその合宿期間に42もの国際試合を行っている。 ホームはもちろん遠征にも積極的に出かけると、イタリア・イングランド・西ドイツなどの欧州列強、チリ・ペルー・ソ連・韓国・クウェートなど、 南米やアジアを問わず実に様々な国と試合を行なった。 中にはサントス(ブラジル)やナシオナル(ウルグアイ)など世界的に有名な名門クラブとの対戦も含まれていたが、最終的な成績は21勝15分6敗(61得点33失点)とかなりの勝率を残している。 これには彼がUNAMの監督時代に育成した(後にバルセロナでプレーすることになる)ウーゴ・サンチェスらユースの有力選手たちの成長が、代表チームを編成するときの大きなプラス材料となっていた。

こうした大胆な強化策とボラの手腕により、メキシコ代表はチーム力に自信をつけ本大会を迎える。 初戦のベルギーを2-1で破ると、パラグアイには1-1、イラクには1-0と2勝1分の好成績で1次リーグを見事突破すると、 決勝トーナメント1回戦で欧州遠征でも対戦した強豪の西ドイツとの試合にのぞむことになる。 試合は地元メキシコの熱狂的な応援もあり0-0で終了。その後のPK戦を4-1と制した西ドイツは結局この大会の決勝まで駒を進めている。 メキシコ代表チームは1敗もすることなく大会を後にしたものの、ベスト8というメキシコサッカーのワールドカップにおける最高成績は、 後の代表チームに大きな自信を持たせるものであった。

■ボラの最初の魔法
ワールドカップの開催国が大会で優れたパフォーマンスを見せることは決して珍しいことではない。歴史的な文脈を踏まえるならば、それはむしろ必然の感すらある。 ボラはこの時点では単に実績ある監督の1人。彼がマジシャンというあだ名で呼ばれるようになるにはもう少しだけ時間が必要だ。

アルゼンチンで1年ほど監督を勤めた後、メキシコで休職中だったボラに声をかけてきたのは近隣の北中米カリブの国、コスタリカだった。 しかしボラがコスタリカ代表監督に就任したのは1990年ワールドカップのわずか3ヶ月前。 このオファーは先のメキシコのそれとは違う類のものであり、とにかく比較にならないほど時間がなかった。 その状況では全く別の対応が求められたのだ。

当時のコスタリカの選手のほとんどがプロ経験の無いアマチュアの選手ばかりであることを考慮した場合、その差し迫った状況で取れる手はたった1つだけだった。 「スカウティングにより相手を徹底的に研究し、その長所を消すこと」 グループリーグ中最弱の戦力ということもあり3連敗が確実視されていたが、大方の予想に反してコスタリカは旋風を巻き起こすことになる。 1次リーグの初戦となるスコットランドを1-0で下すと、ブラジルには最少得点差の0-1、最後のスウェーデンを2-1で破り、まさかの2次グループ進出を果たした。 しかしペナルティーエリアに多くの人数を配する彼らの戦法がいつまでも通用するはずもなく、 大会で好セーブを連発していたGKコネホがグループリーグでの負傷により不在であったのも影響して強豪チェコに4-1と敗れている。

どう考えても勝てる見込みのない相手に勝ってしまう、ボラの戦略的采配は”ボラ・マジック”としてこの大会から完全に定着することになる。 しかし実力弱小のチームを短期間率いただけで期待以上の結果を出してしまったことが、後の彼のサッカー人生において幸福だったのかどうかはわからない。

■サッカー不毛の地での挑戦
2度にわたるワールドカップでの躍進により、監督として名声を得たボラが次に就任したのはアメリカ代表の監督であった。 アメリカ最初のプロサッカーリーグである北米サッカーリーグの消滅以来”サッカー不毛の地”として名高いこの国がワールドカップを成功に導くには、 本国である代表チームの強化が急務であったことは言うまでもない。

その監督という重役にボラが選ばれた理由には、かつてメキシコで築いた開催国の強化の経験と実績があったことが大きい。 彼は監督に就任すると同時に、3年後の地元開催のワールドカップを目標とした協会と綿密な長期強化計画をスタートさせる。 それは3年間で実に92試合の代表戦を行い、加えて大会の1年前に試合と平行して選手たちを拘束しての合宿を行い、 あたかもクラブかのように代表チームを鍛え上げるという途方もない計画であった。 これは一見不可能な計画であるかのように見えるが、実際には当時のアメリカ代表にとってはかなり現実的な計画であったということが出来るだろう。

その1つにはアメリカにはプロリーグがなかったことが理由に挙げられる。
当然、代表選手がチーム合宿に長期に拘束されても大きな不満は出てこないが、それは一方であらゆる面での選手の経験不足、特に精神的な部分での不足があることも意味している。 試合数の多さは、そういう意味での選手の経験を補うために用意されたものであった。

代表の強化に当たり、まずはフィジカルやテクニックに優れた選手を優先的に選考し、専ら実践的な技術を中心に身に付けさせていった。 もともとアスリートスポーツにおけるトレーニングの方法論において、他国の追随を許さないアメリカであるのでプロジェクトが動き出した後の対応は早かった。 チーム戦術も同様で、各選手に役割を徹底させた組織守備と強靭なフィジカルを生かしたプレッシングからのカウンターサッカーによりチームを構築していく。

1994年に行なわれた本大会でのアメリカは、地元の熱い応援を背に受け、初戦のスイスを1-1の引き分けで終えると、バルデラマ率いる南米のコロンビアを相手アタッカー陣にチャンスを作らせず2-1と勝利している。 ルーマニアには0-1で敗れグループリーグは3位になったものの、当時の大会のレギュレーションには成績上位の3位チームの勝ち上がりの枠があり、 アメリカ代表はそこにうまく滑り込んで決勝トーナメントに進出することができた。 しかしそのためのトーナメント初戦の相手となったのがこの大会で優勝したブラジルであったというのは仕方がないことだ。 結果は0-1の惜敗で、アメリカ代表の長い長いプロジェクトもここで終わりを告げることとなる。

■2つの奇妙な解任がもたらしたミラクルパフォーマンス
ワールドカップを大成功のうちに終えたアメリカだが、サッカー協会は翌年にはボラを解任してしまう。 その理由はプレースタイルの問題や選手起用の問題など諸説あるが、後任にはボラの元で1993年からコーチを勤めたスティーブ・サンプションが就任することが決まっていた。 協会としては、ボラとの契約は残っていたものの、ワールドカップで得た自信から、今度はやはり自国のアメリカ人監督によって代表を強化していきたかったのが本音だろう。

幾度にもわたるワールドカップでの成功を手土産に、ボラは2度目となるメキシコの代表監督に就任する。 家庭を大切にするボラにとって仕事との両立が図れるその選択は最良のものになるはずであったが、 3年間メキシコのチームを率いてワールドカップの本大会への出場を順当に決めた後、またしてもボラは突然の解任を通告されてしまう。
理由は「プレースタイルやメディア受けが悪い」とのことらしかったが、後任の監督がメキシコの国内リーグで手腕を振るっていたメキシコ人のマヌエル・ラプエンテであったことに、あるいは何らかの意図を読み取ることも出来るかもしれない。

解任され、手の開いたボラにまたも急を知らせる連絡が入る。
今度の電話の相手はアフリカのナイジェリアだった。
ナイジェリア代表チームの前任者であるフランス人のフィリップ・トルシエは、アフリカ地区予選を勝ち上がってワールドカップ出場を決めたものの、 協会とのくすぶっていた関係がついにこじれたことにより喧嘩別れしてしまったという話だった。 コスタリカに続く2度目の大会直前の就任要請を承諾すると、彼は実に4度目となるワールドカップに望むのである。

しかし、まさかの大旋風はこの大会でも起こることになる。
当時のナイジェリアはその身体能力を武器に、カヌ、ババンギダ、イクペパなど既に欧州で活躍を始めている選手もおり、そういった若い選手達が参加する初めての大会でもあった。 アフリカンパワーの象徴とも言える活躍をしたナイジェリア・スーパーイーグルスの最初にして最大の犠牲者はスペインで、 予選や親善試合を無敗で乗り切ったことで無敵艦隊と言われるほどの好調を維持しており、 この試合でもイエロのFKによる先制ゴールを見た限りではスペインに付け入る隙があるようには見えなかった。 しかしリードしても不思議と同点に追いつき食い下がるナイジャリアをスペインは引き離せない。

事件が起きたのは後半、ピッチ中央にバウンドしたスペインのクリアボールを走りこんだオリセーがダイレクトで蹴り抜くと、 ゴール前で入り乱れる選手達の間を縫いネット左奥にホップしながら突き刺さった。 このワールドカップ史に残るスーパーゴールでナイジェリアはスコアを3-2とし、遂に逆転に成功するとそのまま勝利してしまう。 続くブルガリア戦もナイジェリアの個々の選手の圧倒的な個人技により相手に付け入る隙を与えず1-0で下す。 3戦目のパラグアイにこそ1-3の敗戦を喫したものの、決勝トーナメントには楽に駒を進めることが出来た。

しかしこの若者達に、経験豊かで老練な試合をするチームを打ち破れるだけの力を身に付けさせるだけの時間はなかったようだ。 快進撃を続けるナイジェリアも、シュマイケルを中心とした組織サッカーで勝ち上がってきた新鋭デンマークを倒すまでには至らず、 大会前から指摘されていた守備の弱さを露呈し1-4と力なく敗れている。

■アメリカとユーゴ
ボラはナイジェリア代表監督を退くと、1998年には真新しいアメリカメジャーリーグサッカーのメトロスターズの監督に就任する。 選手や監督の寄せ集めのチームであったのがいけなかったのか、結果は散々なもので通算8勝25敗。 リーグの連敗記録を更新すると翌年の1999年にはチームを解雇されている。

しかしこれも致し方ないのかもしれない。
この時期はユーゴスラビアにNATOが連日連夜空爆を行なっていたときでもあった。 かつてJリーグのピッチでストイコビッチが怒りを爆発させたように、この時のボラも次のようなコメントを残している。 「人道的に言って、空爆を行なうという事実を信じられない。これは誰にとっても損失となる不運な決定だからだ。 先週、ベオグラードの近くに住む家族と電話で話をしたよ。全員無事ではあったが、今は一日中シェルターの中で暮らしているそうだ。」

少なくとも、この時期にアメリカで仕事をすることに喜びを覚えるユーゴスラビア人はいないであろう。
それが如何にアメリカのサッカーに多大なる貢献をしたボラであってもだ。

■眠れる獅子、目覚める
メトロスターズを解任されたその数ヵ月後、ボラは日本の地にいた。
彼がワールドカップの初出場を狙う中国代表の監督に就任したのは2000年の1月の出来事で、 それはちょうど日本で行なわれるキリンチャレンジカップに中国が招待され、親善試合を行なう直前でもある。 ボラ率いる中国はこの試合をよく守り通して引き分けで終えると、本格的に代表の強化を行なっていく。

12億という世界最大の人口を抱える多民族国家の中国は、国内全土から高い身体能力を持った選手がいることで有名だった。 特に近年の中国は企業傘下のクラブの下部組織充実させており、選手のテクニックレベルの向上にも努め、器用な選手も輩出するようになってきているのが現状だ。 中国に一番足りなかったのは選手のポテンシャルではなく、むしろ経験の方だった。 Cリーグなどのプロの国内リーグはあるものの代表の強化には無頓着で、 ボラが監督に就任するまでの1年間に行なわれた代表の試合は、イランとの親善試合ただ1つであることからもそれをうかがい知ることが出来る。

しかし、就任のたった数ヵ月後に始まったアジアカップレバノン大会での中国の活躍は目覚しいものがあった。 グループリーグ初戦の強豪韓国に2-2で引き分けると、続くインドネシアには4-0の快勝、クウェートにも0-0で引き分けて通算成績を1勝2分とし堂々決勝トーナメントに駒を進める。 決勝トーナメント一回戦ではカタールを3-1で退けると、今大会で破壊的な攻撃力を見せつけ一気に優勝最有力候補となった日本代表と再び対戦することになった。 中国は日本の弱点である3バックのサイドのスペースと守備陣の連携の悪さを突いて得点を重ねて一時はリードすら奪ったものの、自力に勝る日本に2-3と競り負ける。 その後も韓国との3位決定戦に臨んだが、中国伝統の”恐韓症”がやはり再発していまい0-1の敗戦を喫すると、大会を日本、サウジアラビア、韓国に続く4位の成績で終えた。

アジアカップが終わると、ボラはいつものように精力的に親善試合を組むようになる。
12月にはアメリカ代表と、2001年1月にはイタリアのラツィオとの親善試合の他、イランで行なわれた4カ国親善試合でイラン、イタリア、エジプトと対戦。 2月にはタイ、カタール、スウェーデンの参加するキングスカップに参加し準優勝した他、アメリカに渡り強豪LA・ギャラクシーとも対戦している。 8〜10月にかけて行なわれたアジア最終予選は、内容的には辛勝が多かったものの、5勝1分の好成績で終え中国を見事ワールドカップ初出場へと導いた。

とは言え、アジアの予選を突破するのがやっとといった様子の当時の中国ではまだワールドカップで勝ちを臨むべくもなく、 大会前の国内外の予想の通りに、コスタリカに0-2、ブラジルに0-4、トルコにも0-3という3連敗で大会を後にしている。

■ボラのサッカースタイルと憧れの地
ボラのサッカーは時と場所を選ばず常に同じだった。
戦術は中盤とDFラインが横一戦に並ぶ4-4-2のフラットラインを基調とし、前線からの組織的なプレッシングとそこからの素早いカウンター攻撃を行なっていく。 チームを1から作るのも好きで、そのため就任して直ぐには勝ち星には恵まれないものの、1年・2年経つとどんなチームにも互角に戦えるだけの粘り強さを身に付けていた。 サッカー途上地域の監督に就任する度に、独特の強化方法でその国に近代的なサッカーを植えつけていくのを得意としている。

それと同時に彼は”ボラ・マジック”に象徴される相手チームの分析・スカウティングの能力に非常に長けており、 チームの戦術的な形と試合毎のスポット的な指示を巧みに使い分けることができた。

ボラのように優秀な監督が欧州で成功を収めたという記録がないのも不思議な話だが、それについて1つ興味深い話が残されている。

それはボラがメキシコ代表監督としてワールドカップ予選を戦っていた1997年の出来事だ。
メキシコ代表はイングランドのウェンブリーでイングランド代表との親善試合を控えていた。 彼はチームに帯同するイングランドの記者に、アーセナルのベンゲルへの崇拝を口にしつつ、プレミアリーグでの仕事の可能性について話しており、 特にメキシコでのボラとクラブチームとの良好な関係、そのため代表に選手を招集することには何も問題がないことなどを記者会見でしきりにアピールしていたという。 しかし、まだ最終予選の戦いを残しチームを鍛え上げている最中であるにもかかわらず、 帰国後に行なわれた対ジャマイカ戦は肝心のレギュラーの選手を欠いた布陣であった。

おそらくボラが最も興味を持っていたのは、プレミアリーグのクラブチームの監督職であったのだろう。 彼の戦術が一貫して4-4-2のフラットラインを用いたコンパクトなサッカーで、攻めにおいては鋭い縦の意識を持っていたことからも、そういった推論は成り立つ。 しかしボラが不運だったのは、プレミアリーグが外国人監督に対して閉鎖的な特性を備えており、英国圏外の外国人監督がその重職につくことがほとんど稀であるという点に尽きる。 1997年にリーグとカップの”ダブル”という偉業を達成したフランス人監督の名を挙げたのも、そういうことを意識してのことだと思われる。

■偏見と誤解
これだけの成績を上げる監督であるにもかかわらず、彼への評価があまり高くないのにはいくつか理由がある。

1つ目は、揉め事を聞き付けてはその後釜に納まるハイエナのような監督とボラが言われていること。
2つ目は、結果は出すが、率いた国に後に残るようなものを何も残さない監督だと言われていること。
3つ目は、金銭だけで国から国へ渡り歩く、金に汚い監督であると言われていること。

1つ目に関して、これはイメージによる決め付けであるといえそうだ。
ボラが大会直前に率いたコスタリカやナイジェリアはたまたま監督の席が開いており、それは単にタイミングが良かっただけだろう。 とは言え、ボラが母国語の他、英語、ドイツ語、ロシア語、フランス語、スペイン語を自在に操る国際派の監督で、 スーツ姿にトレードマークの長髪をなびかせアタッシュケースを持ち歩くまるでビジネスコンサルタントのようであること、 また監督としては珍しく自分を売り込むのが得意であったりすることもまた事実ではある。

2つ目についてだが、ここに面白い事実がある。
かつてボラが率いたコスタリカだが、彼に率いられた時代を忘れられないのか、1998年のワールドカップ後に彼に一度声をかけているが、ボラが当時メトロスターズの監督であったためにこれを断っている。 しかしそれから4年後の2002年日韓ワールドカップで中国と対戦したコスタリカの監督には、ボラが率いた1986年ワールドカップの代表メンバーであり、ボラの戦術や考え方をよく知るギマラエスが就任している。 そのワールドカップ終了後、ギマラエス監督の退任を受けコスタリカ代表監督に就任しているのは、 1998年にアメリカ代表を率いてワールドカップにも出場したボラの元コーチ、スティーブ・サンプションである。 これらの一連の流れを見る限り、コスタリカはボラがもたらした近代サッカーを受け継いでいこうとする明らかな意思が見られる。

だがコスタリカよりも、アメリカの方がボラが残したものを引き継いでいこうとする傾向は顕著だ。 アメリカは1994年以降、4-4-2のフラットラインを用いたプレッシングサッカーとショートカウンターをベーシックな戦術と位置づけており、 国策レベルでこれを普及・実践させることで近年目覚しい成果を挙げているサッカーの高度成長の真っ只中にいる国だ。

その中でも特に特徴的なのが”シャドープレー”と言われる攻撃における実践的戦略である。 ”シャドープレー”を平たくいえば、FWに入れたくさびのパスを生かす攻撃方法である。これは日本で言うポストプレーと第3の動きの総称のようなものにあたる。 これはサッカー協会を主導に、国全体の1つのプロジェクトとして推し進められているプレーで、 アメリカ代表チームはもちろんのこと、プロのクラブチームや大学チームも必ずといっていいほどこのプレーを取り入れており、 シャドープレーは「攻撃の戦術における原点」として広く認識されている。 更にこのシャドープレーについて、協会は各指導者がもし新しいパターンのメニューを編み出したならシンポジウム等で積極的に発表することを推奨しており、 カレッジスポーツと学問が結びついたアメリカらしいアカデミックな試みもなされている。

こうした活動の中で、多くのノウハウが蓄積された”シャドープレー”は、今や完全にアメリカ代表の売り物の1つとなっている。
実際、アメリカ代表で最も多くの得点をたたき出している攻撃パターンはこのシャドープレーからである。 例えば2000年シドニーオリンピックでは、優勝候補の日本を相手に得たPKは、シャドープレーでゴール前にフリーで抜け出したことによって生まれたものだ。

アメリカでこのシャドープレーが広まったのは90年のワールドカップ以降のことだという。
そしてこれはボラがアメリカ代表監督に就任し、協会と連携をとって強化計画を行なっていく時期と見事に一致するのだ。 一度はアメリカを離れたボラだが、現在でもその関係は非常に親密なものであると言われ、アメリカ代表の継続的な強化にも一役かっている。 現代表監督は大学サッカーとメジャーリーグサッカーの双方で抜群の成績を上げたブルース・アリーナで、チームを率いて既に6年目に入っていることからも アメリカが目指す継続的な代表の強化の一端を垣間見ることができる。
(写真:ボラとマスコミの前で談笑するブルース・アリーナ監督)

最後に3つ目の金銭の問題についてだが、まずは以下の記事を紹介する。
記事は2003年6〜7月にかけてのボラの去就に関する内容のものだ。

<2003/6/20>
デヤン・サビチェビッチが辞任して以来、空席になっていたセルビア・モンテネグロ(以下SCG)代表の監督に、 ボラ・ミルティノビッチ(元中国代表監督)が就任する可能性が高くなった。 SCGサッカー協会は国際的な経験があること、そして現在フリーであることを条件に後任探しをしてきた。 当初はFCバルセロナの監督であるラドミール・アンティッチが最有力候補であると言われていたが、 ワールドカップ5回出場のキャリアを誇るミルティノビッチに白羽の矢が立った。 6月20日(現地時間)のSCGの地元紙『スポルト』で、SCGサッカー協会会長のピクシーことドラガン・ストイコビッチは、 ミルティノビッチとの交渉について以下のように述べている。 「ミルティノビッチは偉大でプロフェッショナルな人物だ。われわれはコンフェデレーションズカップの日本対ニュージーランド戦で一緒になり、 その際に私的に話し合いをもった。まだ詳細までは決まっていないが、お互いがSCGのサッカーのためにもっともよい決定を望んでいることは確かだ」

ミルティノビッチもこの監督就任のオファーに対して前向きである。
「私に対する信頼を示してもらったことは大変光栄に思っているし、サッカー協会会長のストイコビッチと会合を持ったことには満足している。 外国で何年も仕事をしてきた後に、母国で肯定的な評価を受けることを望むのは当然である。私は挑戦を恐れない。 もし恐れていたらこのような仕事には就かない。私は難しい状況にある代表チームを引き継いだことが何度もある。 だから私は、最近成功を収めていないプラービ(SCG代表の愛称)を引き継ぐことを恐れてはいない」

<2003/7/4>
代表監督就任のオファーを受けているボラ・ミルティノビッチだが、期限だった6月25日を10日以上過ぎても彼からの返答は一向にない。 イタリアのメディアが、ミルティノビッチは代表監督就任のオファーを断ると報道したことなどもあって、SCG国内では動揺が広がっている。 ミルティノビッチが監督就任を渋る理由はメキシコに住む家族の問題があるからだと表向きは言われている。代表監督になればSCGに生活の拠点を移す必要が出てくるからだ。 またこの理由とは別にささやかれているのが、金銭面での問題だ。経済的に苦しいSCGのサッカー界では西欧や東アジアほどの報酬を代表監督に払うことができない。 そのためミルティノビッチは渋っているのだというのである。

<2003/7/7>
7月7日(現地時間)、セルビア・モンテネグロ(以下SCG)サッカー協会のドラガン・ストイコビッチ会長は記者会見を開き、ボラ・ミルティノビッチがSCG代表監督就任のオファーを断ったことを発表した。 7日(現地時間)の午前、ストイコビッチ会長と前・中国代表監督のボラ・ミルティノビッチ氏は話し合いをもち、同氏が家族の問題を理由にSCG代表監督就任のオファーを正式に断ることを確認した。

以下、この決定を受けてのストイコビッチ会長の会見談話。
「私は失望してもいないし、悔いてもいない。ミルティノビッチ氏とは非常に詳細な部分まで話し合ったし、友好も深めた。 パリで話し合った後は、私は非常に励まされたものだ。ボラが代表監督に就任しないのは非常に残念だ。なぜなら彼は経験豊富で、代表監督の専門家だからだ。 彼の問題に深く立ち入るつもりはない。彼をとがめるつもりもないし、われわれは今後も友人関係にある。 また、彼はお金の問題のためにこのオファーを断ったのではないことを、私は主張しなければならない。私たちはこの国のサッカーについて話し合った。 彼は自分がどうしてオファーを断ったかについて(その理由を書いた)手紙をマスコミに配ろうと考えていた。 しかし私は、それをサッカー協会に持参したくなかったし、その手紙を言い訳のように配りたいとも思わなかった。 今こそ、デヤン・サビチェビッチ(前SCG監督)が、他の監督たちと比べてどれほど勇気があったか、ご理解いただきたい」


ボラの手紙の内容は、地元セルビアの記者には大方察しのつくものであったのではないだろうか。 つまりここセルビアサッカー協会の体制はバルカン半島の政治情勢と何ら変わりのないものであり、 今の状態で監督に就任しても強化など到底不可能であるという内容であったことに違いないのだ。

これまでの例を見てもわかるように、ボラの代表強化のやり方は積極的な手法であるためにその成否を決める最大のネックとなるのは協会との連携体制である。 ボラの輝かしいし成績の訳は、彼がマジシャンだったということよりは、協会との強い連携の上で結果を重視した極めて計画的な代表強化のある意味では必然的な結果であったのだ。 ボラ自身、そうしたことを十二分に承知していたからこそ契約の際して、特に代表に選手を拘束するための条項に関しては、契約前から相当の議論を重ねているであろうことは容易に想像できる。 そういった細かい取り決めに要する契約の準備期間の長さが、思わせぶりな態度で契約を渋り、金額を吊り上げようとしているとの誤解を生んでいる部分もあったはずだ。

またボラに限れば、彼があまりにも有名過ぎることも契約上の大きな問題となっていた部分もある。
例えば中国でワールドカップ最終予選を終えた後にはボラの去就問題が起きているが、その原因は中国のサッカー協会がワールドカップ初出場の監督を中国人にするべきか否か決めかねていたためである。 ボラは契約延長に際して年俸のアップを要求しないことを既に公言していたにもかかわらず、そういった問題が起きてしまった。 それというのも、やはり彼が監督にいることで中国が実力ではなくボラの力のみで出場を果たしたと思われることを快く思わなかった面があるのだろう。

■老将ボラ、最後の挑戦
60歳を迎え、今や”老将”のボラはまたも困難なミッションに挑もうとしている。
今度就任したのはやはり中南米のホンジュラス。 これまでのキャリアで幾度となく行ったように、次の2006年ワールドカップドイツ大会の出場権を得る戦いに臨むことになる。 今までと違う点があるとすれば、仮にホンジュラスが予選を突破したとしてもボラがワールドカップに参加することはないということだ。 なぜなら、彼はホンジュラスをワールドカップ出場まで導いた後には監督業を引退し、チベットで隠居生活を送りたいと公言しているためだ。

現在の彼の年俸は7万5千ドル。
ワールドカップという華やかな舞台によって彩られた人生の対価にしては少々物足りない額ではあるが、 それでも年老いた夫婦が途上国で暮らしていくには十分な額であるのだろう。

<seri>