フットボールを進化させた「将軍」

■本名 : Marinus Rinus Michels(マリナス・リヌス・ミケルス)
生没年 : 1928年2月9日〜
出身国 : オランダ・アムステルダム

■現役時代の経歴 :
▽在籍チーム
1945-58 : アヤックス(アマチュア)

■監督時代の経歴
▽就任チーム
1962-65 : JOS(アマチュア)
1965-71 : アヤックス(以降プロ)
1971-74 : バルセロナ
1974 : オランダ代表
1974-75 : バルセロナ
1976-78 : バルセロナ
1978-80 : ロサンゼルス・アズテック
1980-83 : 1FCケルン
1984-88 : オランダ代表
1988-89 : レバークーゼン
1990-92 : オランダ代表

▽タイトル
<アヤックス>
66、67、68、70 : オランダリーグ優勝
67、70、71 : オランダカップ優勝
71 : チャンピオンズカップ優勝
<バルセロナ>
74 : リーグ優勝
78 : 国王杯優勝
<1FCケルン>
83 : 西ドイツカップ優勝
<オランダ代表>
74 : ワールドカップ準優勝
88 : 欧州選手権優勝

■アヤックスと共に歩んだミケルス
アムステルダムのサッカー好きの家庭に生まれたミケルスは、当時まだアマチュアだったアヤックスに所属する。 自らハードなトレーニングを課す努力家であり、またヘディングの名手でもあったミケルスはアヤックスでFWとして260試合に出場し122得点をあげている。 58年に引退したミケルスは、その後高校からの夢であったスポーツインストラクターの道へ進むと、難聴の子供達のために働いた。

転機となったのは62年のアムステルダムのアマチュアチームJOSの監督就任の依頼を受けてからだ。 彼の練習は現役時代の彼を同じく非常にハードなものであるのと同時に有無を言わさぬ強い態度でそれに臨ませた。 65年にプロ監督のライセンスを取得すると、すぐに彼は開幕から低迷していたアヤックスの監督就任要請を受ける。 アマチュアチームの監督がいきなり国内トップチームの監督に就任するという異例の人事であったが、 これも現役時代の彼を知る人達の強い信頼によるものだった。

アヤックスでの最初のシーズンでチームを降格の危機から救うと、翌年にはチームをリーグ優勝へと導いた。 オランダのチームがプロ化したのは60年代の始めであり、現役時代を通じてアヤックスの伝統的なオフェンシブで魅力的なサッカーを知るミケルスは、晴れてそれを実現するのに最良な場所を得ることになった。

■トータルフットボールの誕生
当時のアヤックスは国内でこそトップチームであったが、ヨーロッパではまだ二流チームに甘んじていた。
ヨーロッパチャンピオンズカップは一度も手にしたことがなく、国内でもフェイエノールトの陰に隠れることが多かった。 しかしミケルスが監督に就任してからというもの、アヤックスは国内で無敵を誇り、66年からリーグ3連覇している。 だが満を持して出場した68年のチャンピオンズカップでは決勝に進みながらもACミランに1-4の苦い敗戦を喫し準優勝に終わっている。

だが、この敗戦は後のアヤックスに多くのものをもたらすこととなる。
ミケルスは勝利を得るために必要なレベルに達していないと思われる選手を何人か外し、よりフィットすると思われる若手を起用するという英断をした。 これは賢明な判断だった。
後述のトータルフットボールという革命的な戦術が実践に移され始めたのもまさにこの時期だった。 69年こそタイトルは取れなかったが、70年には国内リーグとカップを制し、更にその翌年のチャンピオンズカップでは悲願の優勝を遂げることになる。

だがこの有能な監督を引き止めておくほどの力はまだアヤックスにはなかった。
もちろん彼の独断的な指導態度が自由主義のオランダ人には(特にフィジカルトレーニングを極端に嫌うクライフにとって)我慢ならない部分があっただろうが、 とにもかくにもチャンピオンズリーグの優勝という大きな実績を引っさげてミケルスはスペインの名門FCバルセロナの監督に就任する。 しかしながらトータルフットボールのコンセプトがこの新しいチームですぐに浸透するはずもなく最初の2年間はそれぞれ3位と2位に甘んじている。

結果を残したのは74年、ミケルスが監督になってから初めて国内リーグを制覇した。
そしてそのかたわらにはアヤックスでも指導したクライフとニースケンスという2人のオランダの英雄がいた。

■オレンジマシン、あるいは時計仕掛けのオレンジ
38年大会以来、実に36年ぶりに弱小オランダが参加した74年ワールドカップ西ドイツ大会。
今では考えにくいことだがオランダサッカー協会は、ほとんど何の準備期間もないままミケルスをバルセロナの監督と兼任という形で代表監督に迎えた。 だがそのことがチーム作りの問題になるようなことはなかった。 なぜなら代表選手のほとんどがアヤックスか元アヤックスの選手であり、 チームの攻撃の要であるクライフとニースケンスもミケルス率いるバルセロナに所属していたからだ。

準備期間が要らないわけだ。
つまりオランダ代表はミケルスのよく知る選手を使って71年のアヤックスと同様のトータルフットボールを実践しようとしたのである。 実際、この間にミケルスが代表選手たちに何か指導したという記録はない。
そしてこの大会でオランダ代表は実に36年ぶりにブレイクするのだった。
しかもトータルフットボールというとてつもない方法でだ。
大会が始まるとオランダ代表の繰り出すスペクタクルで圧倒的なプレーに観衆はただ息を呑むばかりだった。

見たこともないようなハイペースのボール回し、前線からクライフはラインを前後に動かし、選手達は常にポジションをチェンジし続けた。 まだマンマークによるマーキングが一般的だった時代、相手選手はさぞかし混乱しただろう。 その極端に組織的な動きから、いつしかオランダは「オレンジマシン」「時計仕掛けのオレンジ」などと呼ばれるようになる。

オランダは当然のように決勝に駒を進めた。
数多くの強豪を相手にしたにも関わらず、準決勝を終えた段階で14得点1失点という成績だった。 だがその1失点すら味方のオウンゴールによるものだった。 オランダはまさに完璧な状態であり、誰もが優勝はオランダの決まりだと思っていた。

決勝の相手は開催国の西ドイツ。
試合が始って早々、何とオランダはドイツ選手に一度もボールに触れさせずに、クライフの突破で得たPKからゴールを奪う。 だが先制して消極的になったオランダは地元西ドイツの猛攻にあってしまい、ゲルトミューラーの伝説となるゴールもあり、結果2-1で負けてしまう。

唐突で、スペクタクルで、悲劇的な最後を遂げたオランダ代表はトータルフットボールと共にサッカー史に残る大転換をもたらすのである。

■オランダサッカーの伝道師として
ワールドカップ後も引き続きバルセロナの監督を続けていたミケルスだったが、周囲の期待とは裏腹に思うように成績は伸びなかった。 トータルフットボールが本来オランダの育成システムから生み出された選手に最も適していたこと、 スペイン人のプロ意識がミケルスの求めるレベルでなかったことなど理由は様々だ。

そんな時にオファーを受けたのが当時出来たばかりのアメリカのサッカーリーグのロサンゼルス・アズテックからの(おそらく魅力的な)誘いだった。 ミケルスを放したがっていたバルセロナとミケルス自身もこれを承諾し、そしてその後を追うようにクライフも同様の魅力的な何かでバルサを去る事になる。 だがせっかくの新天地での試みも、リーグが消滅寸前でとなり彼らも出て行かざるを得なくなるのである。

ヨーロッパに戻ってきたミケルスはオランダ代表とドイツリーグのチームの監督を変わるがわる歴任し、 オランダトリオを要した88年の欧州選手権では宿敵ドイツを準決勝で破りオランダ代表初のビッグタイトルをもたらした。 4年後に同じくオランダ代表を率いて92年欧州選手権に臨んだミケルスは、準決勝でスェーデンにPK戦の末敗退すると遂に監督引退を宣言をする。

74年以降のミケルスはトータルフットボールの亡霊に取り付かれたように目立った成績を上げることはできなかった。 だが彼が監督として世界中を渡り歩いたことでそれは結果的にトータルフットボールの、そしてオランダサッカーの伝道師としての役割を果たした。

余談だが、彼は多くのあだ名を持つ。
厳格な規律とハードなトレーニングが身上のミケルスは”将軍”と呼ばれていた。
またトレーニングやゲーム中にほとんど話すことがなく、メディアにすら滅多に口を開かなかったことから”スフィンクス”というありがたくない名前ももらった。

スペインに行ってからも、芸術と情熱を愛するバルセロナの人々はやや面白みにかけるその男を彫刻にたとえて”大理石”と呼んだ。 厳格ゆえに、敗戦を喫した夜に選手が宴会騒ぎをしたときなどは、騒ぎの中心となった選手を移籍させてしまったほどだ。

頑固で実直で近づきがたい人間、それがミケルスだった。

■トータルフットボールという解釈
ミケルスの独創で生み出されたものと勘違いされることの多いトータルフットボールだが、実際にはこれを実践するには監督と選手、首脳陣を交えた多くの試行錯誤があったようだ。 ここにある新聞のロングインタビューに答えたミケルス自身によるトータルフットボールのコンセプトの詳細についての独白があるのでかいつまんで紹介する。

―――「フットボールの改善策は二つの傾向に区別することが出来る。
1つは「身体条件、戦術、テクニック」におけるかなりはっきりした変更であり、
もう1つは「ゲームのコンセプト」における大がかりな変更だ。

戦術に関して最新のものは「トータルフットボール」と呼ばれるものである。
その顕著な特徴は次のようなものだ。
(1)自分達のスタイルを展開するために、常にイニシアティブを握ること。
(2)1のためにはチームがボールをキープする必要があるということを意味する。 よってボールを捜しに行って射止めるのは本質的な任務である。
(3)ボールを捜しに行くことを容易にするためにプレーのフィールドを縮小する。 チームのそれぞれのラインは、相手の侵入口をうまく、そして継続的に閉ざさなければならない。
(4)ボールを持ったら出来るだけバリエーションのある攻撃プレーを展開する。チームのすべてのラインがこれに加わる。 ディフェンス陣が攻撃に参加することがトータルフットボールと捕らえてはいけない。
(5)トータルフットボールにおいてリレー(ポジションの相互交換)はきわめて大切なものである。
(6)このフットボールをうまく実践し、経験を積んだチームはゲームの激しさを増したときも、 その逆のときも「ゲームのリズム」を支配しなくてはならない。

これら6つのポイントが近代フットボールに置ける最新戦術のコンセプトの容貌を描き出している。
このようにプレーするためには「テクニック、戦術、身体、精神」がそれぞれハイレベルで要求される。
(中略)
トータルフットボールは美しくスペクタクルであるが実行に移すのが困難だ。選手達に要求することがたくさんある。
攻撃的であると同時に、逆説的に見れば最も優れたディフェンスの戦術でもある。
例えば「カテナチオ」はこれと対照的にディフェンスのメンタリティーに由来するフットボールである。
攻撃的戦術でプレーするということは別のタイプの選手を育てることになる。
(中略)
トータルフットボールはこのスポーツの新しい解釈方法である。しかしながら実践者の数は限られる。
うまく実行するのは難しく、それでいてリスクが伴うからである。だが、やりがいのある戦術だ。」―――


自身が行うサッカーについてこれほど詳細に語る監督は非常に珍しい。そしてこれほど明確に語れる監督となるともっと珍しい。 クライフはトータルフットボールのことを「サッカーの本来の姿」と言ったが、ミケルスは違う。 彼はそのことを「単に解釈のひとつだ」と言う。

そもそも「トータルフットボール」という言葉は新聞記者がつけた呼び名であってミケルスが考え出したものではない。 インタビューでミケルスはあえて使わなかったようだが、自身はこのサッカーのことを「プレッシング・フットボール」と言っていた。 このサッカーでまず重要なのはポジションチェンジを自分達を自由にするのではなく、プレッシングによって相手の自由を奪うほうなのだ。

もちろんポジションチェンジはプレッシング・フットボールには必要なものだが、 それはむしろ「華麗な攻撃を仕掛けなければならない」というオランダ人のポリシーに基づくもので、このサッカーにとっての必要十分条件ではない。 本来、プレッシングとポジションチェンジは切り離して考えることが出来る。そしてそのことはサッキミランが既に証明しているのだ。

だが、ミケルス自身ポジションチェンジには相当こだわりがあった。
選手との衝突の原因となるほどハードなトレーニングを積んだことで、試合中は常にポジションチェンジできるスタミナと ドイツに対しても当たり負けることなくプレッシングを仕掛けるという離れ業ををやってのけたのだ。 むしろ問題だったのはそういうトレーニングを強いられたのがテクニックに溢れた選手達であったという点だ。 彼らの中で溜まったストレスは、最終的には監督への造反として帰ってくることになり、そしてミケルスもこの例外ではなかった。

後に監督となりトータルフットボールを90年代に復活させることとなるクライフは、 自身は優れたスプリンターであったにも関わらずフィジカルトレーニングを嫌った。 彼はバルセロナの監督に就任したときこう言っている。 「正直フィジカルトレーニングという分野には興味がなかった。だから私はそれをよく知る人物に任せることがベストだと思った。」 彼はバルセロナの監督になってからというもの、ミケルスとは対照的に練習時間のほとんどを選手のテクニック向上のために費やしたのだった。 だがそれは極上のテクニックを生み出す代わりに、チームとしての力強さや安定感といったものを最後までもたらさなかったのである。

最後に1つ面白いことがあるとすれば、ミケルスはプレッシングの理論を構築するのにロバノフスキーと同じようにアメリカのバスケットボールを研究していた点にある。 ロバノフスキーはおそらくミケルスがバスケットを参考にしたことは知らなかったと思うが、プレッシングで知られる歴代の名将が同じ研究方法を用いているのには非常に興味が湧く。

■幻想としてのトータルフットボール
ミケルスの言葉に次のようなものがある。
ルール1「監督の言うことはいつも正しい」
ルール2「監督が間違っていても、ただちにルール1が適用される」


彼はトータルフットボールに自覚的だった。
結局のところ、それは幻想に支えられたプレースタイルなのだ。
リスキーなその戦術はピッチ上のたった1人がロジックを働かせて危険を察知し躊躇した途端に、あっさりと崩れ去る。 そしてその幻想を支えるものはミケルスの存在であり、ミケルスという指針に支えられた組織プレーなのだ。

リヌス・ミケルスはオランダサッカー界に今なお輝き続ける巨星である。
クライフはその業績を「オランダが結果を残したとき、その傍らには常にミケルスがいた。」と称えている。 彼の生み出したトータルフットボールを取り入れようとするオランダ人監督が未だに多いのも事実だ。 だがこのことはオランダサッカーにとってあまりいいこととは言えないようである。 オランダリーグを見ればそのことは直ぐに気が付く。

テクニックと創造性に溢れたはずのウィングが、今はやたら足が速いだけの黒人スプリンターの溜まり場となっている感すらある。 そもそも3トップにおいてウィングと言うのは非常にゲームに絡みづらく、 本来は突破力とテクニックだけでなくゲームに絡める才能を有している必要があるのだ。 現役時代のクライフなどはまさにそういうプレーに長けていた。 オランダサッカー界全体の低迷もこのウィングシステムのもたらす複合的な問題によるものだ。

ミケルスは最近ある雑誌のインタビューでこう言っている。
「何故形にこだわるのか?私はトータルフットボールをするのに3トップでなくてはならないと言った覚えはない。 3トップにしたのは当時のサッカーにはそれが適していると判断したからだ。」

88年以来、下降線をたどるオランダサッカー。
21世紀となった現在、あの恐ろしく強かったオランダがワールドカップにすら参加できなくなってしまった。
3トップはオランダに多くの遺産を残したが、今は間違いなくそれが弊害となっている。

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