Tele Santana〜テレ・サンターナ〜

■本名: Tele Santana(テレ・サンターナ)
生没年: 1931年7月26日〜



現役時代の経歴:
<在籍チーム>
1931年7月26日生まれ
1950-1963: フルミネンセ
1963-1964: グアラニ
1964-1965: マドゥレイラ
1965 : ヴァスコ・ダ・ガマ

<記録>
フルミネンセクラブ得点王歴代4位

<タイトル>
51、59: リオ州選手権優勝(フルミネンセ)
57、60: リオ=サンパウロカップ優勝(フルミネンセ)

監督時代の経歴:
<就任チーム>
1967    : フルミネンセ・ジュニアユース(ジュヴナイル)
1968    : フルミネンセ・ユース
1969-1970: フルミネンセ
1970-1971: アトレチコ・ミネイロ
1973    : サンパウロFC
1977-1978: グレミオ
1979-1980: パルメイラス
1981-1982: ブラジル代表
1983-1985: アル・アーリ(サウジアラビア)
1986    : ブラジル代表
1988-1989: アトレチコ・ミネイロ
1989-1990: フラメンゴ
1990-1995: サンパウロFC

<タイトル>
81  : 南米予選通過(無敗)
82  : ワールドカップ・2次リーグ進出(最優秀チームに選ばれる)
86  : ワールドカップ・メキシコ大会ベスト4

92、93: リベルタドーレスカップ優勝(サンパウロFC)
92、93: トヨタカップ優勝(サンパウロFC)

その他、ブラジル国内の州選手権、全国選手権等を多数獲得。
ルイス・フェリッペ・スコラーリ監督と並んで90年代ブラジル最多タイトル獲得監督でもある。

テレ・サンターナとは:
W杯史上有数のチームといわれる1982年のブラジル代表を指揮し、2部リーグで10位と当時どん底だった名門サンパウトFCをトヨタカップ2連覇まで導いた__90年代ブラジルで最も多くタイトルを獲得したテレ・サンターナは名実ともにブラジルを代表する名将である。

テレ・サンターナは、サッカーの2面性を象徴する自由と規律を合わせたサッカーを指向した。ロバノフスキー同様早くからコンピューターを導入し、シンプルで合理的な計画性を重視する一方で、ブラジル人の特性を生かしたアドリブ的なプレーによる即興性も試合を決める力になる欠かすことの出来ないものと考えていた。

また、選手に規律を重視することとプロフェショナリズムを強く求めた。「選手を選ぶ際には、その技術的な素質のみならず、グランド内外における行動も十分に考慮する」と本人が語る通り、行動に問題がある選手には一貫して厳しい態度を取った。サンパウロFCでは監督であった5年間練習場に住み込み、普段の行動や選手の人となりを知るために選手の行動を逐一観察していたほどだ。規律を重視することは、ファウルなど試合での直接的な影響はもちろん、規律を守らない選手が及ぼすチームへの悪影響を考慮したためだ。 また、サッカー以外の場面でも選手を良く観察することは、決して監視するためだけではなく、選手の悩み相談や人生のプランの提案を行うなど選手の精神的なケアを行うためでもある。選手が試合に臨むにあたっての精神状態を重視し、適切なモチベーションを選手に与えることも重要と考えていた。このあたりがテレ・サンターナがブラジルで成功した所以かもしれない。

その他にも選手の獲得よりも練習グラウンドなどのインフラ設備の改善を重要視し、特に良質の芝の確保に力を入れた。輸入芝を導入する、芝の手入れを専門家に任せる、3つのグラウンドを使いまわし芝の保護に努める、などグラウンドの運用は、選手の技術を向上させる助けとなり、サンパウロFCの特筆した結果の要となったものだと、テレ・サンターナは語っている。 また、資金不足と選手の海外移籍の影響もあり、若手を積極的に起用した。その際の舞台作りも、若手がのびのびプレーできる環境を作ることも上手かった。レギュラーに欠員が出たらまずサテライトの選手から新しい選手を探す、とテレは言う。このようなことがサンパウロが有力選手を大量に放出しても戦力を維持できた理由だ。

テレ・サンターナは、チームマネジメントを中心とする監督としての総合能力の高さで、個性が強いセレソンに最高のコンディションを与え、サンパウロFCを常勝クラブへと導いたのだ。


テレ・サンターナの戦術:
テレ・サンターナの戦術を語る上で外せない要素は『ゾーンディフェンス』と『4−4−2』である。
この2つのキーワードを使ってテレ・サンターナの戦術を解説したい。

_ゾーンディフェンス

ゾーンディフェンスを最初に採用した人物については諸説あるが(詳しくはコレを参考)フルミネンセでのゼゼー・モレイラという説が最も有力だ。そのゼゼー・モレイラはテレ・サンターナを語る上で切り離せない存在だ。 テレ・サンターナの選手としてのスタートは、革新的戦術であるゾーンディフェンスを引っさげ意欲に燃える新米監督だったゼゼー・モレイラのフルミネンセからであったからだ。しかも、テレはその戦術のキーマンでその後12年間フルミネンセでプレーした。

ここでまず、テレ・サンターナにとって「私の人生において彼ほど大きな存在は他にない」といわせるゼゼー・モレイラのサッカーからブラジルの創世記ゾーンディフェンスについて説明したい。

ゼゼーがゾーンディフェンスを使い始めた当時のフルミネンセは、ディフェンシブなプレーが多いチームで、いつも相手にボールを支配され守備的な展開になることから、ゼゼーは「臆病者」「ディフェンス過信守備者」などと、ブラジルではさんざんに叩かれた。 たが、総じてボールをもちすぎる傾向にあるブラジルでは、ゼゼーのスピーディーなカウンターは効果的で、まるでイタリアのように1−0で勝つ試合が多いこともその特徴だった。

「自身のスタイルを確立し、優秀なディフェンスを実現していた」
とテレもいうゼゼーのフルミネンセは、4−3−3フォーメーションを採用し、CBにはヘティングの強い選手を並べた。まず、中盤の3人がサイドへ開かないで中央を固めることにより中央からの突破を封じ、 サイドバックが高い位置まで上がって、相手にアーリークロスを上げるように仕向けさせ、それを空中戦での競り合いに強いCBが跳ね返す、という流れが守備の基本だ。 ただ、スモールフィールドという概念自体ない時代なので、選手の運動量の多さが問題だった。特に、サイドバックは広域のサイドエリアをカバーする必要があり、上記のように高い位置からの守備も要求された。 このように総じてフィジカルコンディショニングの要求が高いことも草創期ゾーンディフェンスの特徴だった。

テレ・サンターナはゼゼー・モレイラから監督としての多くの知識を得たと語っているが、特にゾーンによるマーキングに関しては次の2つを上げている。

・ディフェンス陣のグループとしてのまとまりがよくなければ、失点を大量に食ってしまうこと
・相手ゴールに素早く達することの出来る足の速いアタッカーが必要になること

_『4ー4ー2』システム

『4−2−4』のゾーンディフェンスの発生から70年代世界的主流だった『4−3−3』、そして『4−4−2』。 この間、世界のフォーメーション変遷の中心に位置した国はブラジルだった。(再びコレを参照)

テレ・サンターナは、かつてのマン・ツー・マンのマークキングからゾーンによるマーキングに変わることによって、1人1人ではなく、チーム全員がボールの奪還に参加する意識が生まれたとしている。 それなしではゾーンディフェンスは決して有効に働かないのだ。

フルミネンセでの現役時代は右ウイングだったテレは、「ディフェンスの擁護もするFW」という役目を与えられていた。 これは、当時としては大変珍しく、この概念はゼゼー・モレイラが50年代にはじめて考え出したものではないかとテレも語っている。 ウイングは、サイドに張っているだけだと試合の流れから外れてしまう。当時ウイングというものはそう言うものだったのだが、テレはそれを嫌がった。 試合の流れから外れないように、頻繁に中盤に引いて来たり、グラウンド中央へ戻ってボールの奪還に参加することを試みた。 そうしてウイングが少し後退する感じでプレーするうちにポジションが後退してミッドフィールダーのごとく機能するシステムが生まれたのだ。 こうして出来たものがフルミネンセの『4ー4ー2』システムである。

しかし、『4ー4ー2』は、まだまだ一般化されておらず、守備的とされていた。その後の繁栄を決定づけた出来事は、82年のW杯である。 組織化された自由__ソクラテスが「パグサン・オルガニザーダ」と表現したこの一言が82年のセレソンを見事に表現している。 テレ・サンターナは、「4点取られても、5点取れば良い」という発言に代表されるようにオフェンシブな試合を好んだ。そこが、ゼゼー・モレイラと決定的に違う部分だ。 テレが、シンプルなサッカーと創造性あるサッカーの両立を指向したことは既に書いたが、82年のセレソンはその理想の完成例と言えるものだ。

黄金の中盤と呼ばれる4人__ペレの後を継ぐ王国のエース、ジーコ。ドトール「医師」の異名を持つ王国の頭脳、ソクラテス。攻守に優れたボランチのトニーニヨ・セレーゾ。そしてボランチでありながら高い攻撃力を誇る「ローマの鷹」ファルカン。 スクエア型に並んだ4人の流れるようなポジションチェンジからのシンプルなワンタッチのパスワーク。シンプルかつ創造的なサッカーを指向したテレ・サンターナの理想のチームは確かにそこにあった。

スクエア型に並んだ中盤の構成は、4−3−3が主流の当時異彩を放つものだったが、それだけではなく右ウイングを引き気味にして4−4−2となることとは違う過程を取っていることも興味深い。 従来の4−3−3の中盤の構成は2人の攻撃的MFとボランチで構成された逆三角形型がベースであった。事実W杯前までのセレソンもジーコ、ソクラテスのOMFにセレーゾのボランチという形を採用していた。 それをテレ・サンターナは、ウイングを引き気味にプレーさせるということをヒントとして第二ボランチとしてファルカンをそこへ加え、「ドイスボランチ」(ドイスボランチの効能については別コラムで掲載予定!)を採用したのだ。ファルカンは現在スペインリーグなどで良く見られる攻撃の組み立てを行うボランチのパイオニアとも言える。

W杯前、ブラジル国内でウイングを上げろという全国的なキャンペーンまで行われるほど疑問視された『4−4−2』だが、それを守備的とする風潮はこの大会を境にして完全に消え去った。
(GAITI)

■関連リンク : 「テレ・サンターナのサッカー哲学」