■「横行する国見批判」

2004年の高校選手権は国見高校が何度目かとなる優勝を6-1という見事な戦いぶりで決めた。
しかし、その高校サッカー界における圧倒的な成績とは裏腹に、国見高校が批判の対象に挙げられることは多い。

主な批判のポイントは2点。
一つは彼らの実践的なサッカースタイルについて、もう一つは国見高校の体質についてだ。

■国見批判のステレオタイプな論調
国見高校を批判した文章は多いが、その中でも代表的なものを挙げることにしよう。
例えばサッカーライターで有名な永井洋一氏は、Number586で 昨年の2003年に行われた高校選手権決勝の試合を評してこのような文章を書いている。

「高校選手権の決勝を戦った2つのチームには、走力や体のキレの鋭さ以外に見るべきものがなく、将来の日本を担う素材として大変失望した。 特に徹底して体力面を鍛え、走って、当たってボールを奪い、手数をかけずにゴール前に送り込み、力ずくでゴールにねじ込むという国見のサッカーからは、 クリエイティビティは感じられなかった。それは、3年という限られた時間内で高校生が勝利するための、合理的な方法ではある。 しかし、そこから中田英寿、中村俊輔、小野伸二、高原直泰のような、海外に通じる才能が輩出される希望は見出しにくい。

例えば国見高校サッカー部に中田英寿が在籍していたとしよう。 彼は500m走を1時間続けた後に坂道でダッシュを繰り返すような練習に異議を唱え、即刻、退部してしまうだろう。 あるいは中村俊輔、小野伸二が在籍していたとしたら、その柔軟な技術は早々に埋もれてしまうだろう。 高原直泰も、ボールをこねくり回しすぎるとして、プレイスタイルを変えられるかもしれない。

顧問の教師は「人間教育」を強調している。しかし、合宿所に住まわせ、全員を同じ坊主頭にし、一年中オフもなく試合行脚を続けるようなサッカーづけの毎日が、どうして人間教育といえようか。 私にとって、それはただ従順で、聞き分けのよい、画一化された、独創性の乏しい、大人にとって都合のいい人間を作り出す作業にしか見えない。

国見の“高校サッカー部”としての戦績は記録に残る。
しかし、そのあまたの実績の一方で、海外に進出する素材はおろか、日本代表選手すらまともに育っていない。 もちろん、全国から優れた人材が多数、集められる中で、その膨大な母集団の中から生き残り、Jリーガーとなる選手もいる。 ところが、その多くが期待したほど伸びずに埋もれていく。それは彼らが、肉体的にも精神的にもバーンアウトするからではないのか。 精神的バーンアウトには、心理的モチベーションがかれてしまう現象以外に、 規制から解き放たれてコントロールを失い、自己管理ができずに堕落していくという側面もある。 髪型、生活態度からトレーニングまで、全ての責任を自分が負う状況で自分を律することができるようにする指導こそ、海外での活躍につながる真の人間教育なのだ。」


この文章には、既に挙げた2つの批判点である「スタイルと体質」についてのステレオタイプな論調が凝縮されている。
ちなみに国見高校に対する多くの批判的な記事はこれとあまり大差無い内容である点も指摘しておこう。

問題は、国見高校が本当に永井氏のいうような抑圧された状況でサッカーを行っているのか?ということだ。
以下は、主にサッカークリニック5月号からの出典を元に、これら批判的な記事の検証していくことにする。

■国見高校の練習はどんなものか?
「国見の特徴として、1対1に強いと評価して下さる方もいる。 私としてはまだまだ満足していないが、仮にそうだとしたら、それは月曜から金曜まで毎朝体育館で行っている朝練習のミニゲームの成果だと思う。 朝練習は6時10分から7時30分までで、そこからは指導者は一切意見を言わず、選手が好きなようにプレーしている。 国見高校には新旧二つの体育館があり、レギュラーとサブが交代で使用する。古い体育館のほうはかなり老朽化しており多少手荒に使っても許されるので、 そこで壁にボールを当てて文字通り壁パスをしてもいいことにしている。ミニゲームでは積極的にドリブル突破を行い、どんどんシュートを放って得点を競う。 新しい体育館ではそうしたことが出来ないので、パスゲームを行う。10本パスがつながったら1点とルールを決めて、出来るだけボールをつなぐようにする。
この練習で重要なのは人から教えられるのではなく自分でアイデアを考えることだ。
トライ&エラーを繰り返すことによって誰にも真似の出来ないだけの技術を見に付けることが出来る。」


「トレーニングメニューでも1ヵ月か2ヵ月続けて効果がない場合、それをやめてしまうことがあるが、それではあまりにも性急過ぎると思う。 あるとき、うちのコーチ陣(大きな高校では一人の監督が全ての練習や準備を行うことが困難なため、もとOBなどら数人でコーチとして現場での指揮をとる)から こんな申し入れがあった。『試合が近いので、体育館で行っている朝練習を、グラウンドに移してチーム戦術の練習をしたい』というのである。
確かに短期的な視点からすれば、朝も戦術練習を行えばチーム戦術は徹底できるだろう。だが長期的な視点からすると、必ずしも得策ではない。 朝のミニゲームは入学してから卒業するまで3年間継続することに意義がある。ずっと続けていることで、ある日突然アイデアがひらめき、 今まで出来なかったことが出来るようなる。目先の目標のために長期的な目標を犠牲にしてしまったのでは、本末転倒だと思う。」


国見高校の小嶺忠敏総監督はサッカークリニックでこのように答え、国見高校の練習の特徴について述べている。
国見のサッカーの特徴などを考慮していくと、その特色を出させているのがこの朝練習の成果と言う事ができるだろう。 とにかくこの練習は、”3年間一日も欠かさずに、朝は個人能力の習得に当てる”というのが特徴的だ。 全員がこれほど徹底的に1対1を繰り返す練習は、ある意味では画期的ともいえる。
国見高校の場合、こういった地道な練習の積み重ねが、ピッチ上にきちんと再現されているのも興味深い。 局面、特に攻撃時のドリブル技術やキープ力、守備時の対人対応の強さと老練さなどをピッチに立つほとんどの選手が持つまでに至っているのだ。

一方で、例えば6時10分からの練習と聞いて眉をひそめるものもいるかもしれない。
しかし、自分達のやりたいようなサッカーを、コーチ達のうるさい小言を一切受けずに行える場を2時間も提供してもらっていると考えるとどうだろうか? これは想像だが、選手達はこの朝練習を凄く楽しみにしているのではないだろうか? モチベーションという意味で、これ以上若く伸び盛りの高校生に最適な練習方法もないであろうと思う。

「県内外の高校の監督さんもよくうちの練習を見学にこられますが、そうした指導者の方がよく口にすることは、 『国見はもっと軍隊式の練習をしていると思った』 『毎日、何十キロも走らせているのかと思った』ということだ。 皆さん『そのイメージが崩れてしまった』といって帰られるのだ。スポーツマスコミも”国見のサッカーはよく走る”という言い方をするが、 厳密にゲーム中に選手が走っている距離を測定すれば、他のチームとほとんど変わらないはずだ。 現実問題として、今の子供に毎日何十キロも走らせたら、体が壊れてしまう。 そんな無謀なことはしない。実際にフィジカルトレーニングを行うのは週に1回。多くても2回程度でしかない。 『国見はフィジカルが強い、よく走る、個人技で勝つ』といった評価は先入観だけで言われてしまうことが多いように思う」

国見の場合、運動量やフィジカルといった側面が強調されているが、実際にはそういったものを身につける練習は多くない。 むしろ変な高校よりはよっぽど少ないのではないかと思えるほどの量しか行っていない。 つまり、運動量が多く見えたのは選手のピッチ上の意識付けの確かさであり、フィジカルはむやみに鍛えているというよりは、 先に挙げた徹底的な対人対応の練習の成果により、体の当て方などが他の高校よりも抜群に優れているのだろう。

■国見は個性を潰してきたのか?
「国見のチームとしての個性があるとすれば、中学時代の有名選手がほとんどいないということだろう。 中村北斗は、中学1年までサッカーをしていたが、2年、3のときには野球をやっていた。柴崎も、件の選抜には選ばれていたが、 九州のトレセンでは全く相手にされていなかった。松橋は中学時代、長崎県の選抜にも選ばれていなかった。兵藤もそこそこの選手だった。 平山がトレセンの九州選抜にようやくはいったくらいで、他の選手はほとんど無名に近かった。 全国の強豪チームを見るとU-15の代表候補選手5〜6人くらいいるケースもある。そういったチーム事情を考えれば、選手達はよく持ち味を出していたと思う。」

監督は謙虚に「よく持ち味を出していた」と言っているが、国者選手を見ていると彼らは実に個性的で、まさに個性の塊だ。 だからこそ「個人技で勝つ」と言われてしまうのだが、その実、彼らのほとんどが中学生までのゴールデンエイジの時代には全く無名の存在に近かったというのが逆に注目に値する。 つまり彼らは国見に入った3年間で爆発的に、それこそ高校のトップレベルと遜色ない戦いができるまでに、それこそ奇跡的に成長しているのである。 そうなるからにはよほどのスペシャリスト教育をしているのだろうと勘ぐってしまうものだが、これについても監督は次のように述べている。

「現代サッカーでは、1人の選手が複数のポジションをこなすことが要求されるようになった。 国見でも、練習自体ではさまざまなポジションを経験させている。中村北斗もSBをやったりFWをやることがある。 兵藤もDFからFWまでほとんどのポジションをこなせる。」

これも意外だが、国見ではポジションを固定して徹底的に鍛え上げるようなことはしないようだ。 可能性があると見ると様々なポジションで選手を試し、個性を引き出そうとするアプローチを積極的に行っている。

「国見の“高校サッカー部”としての戦績は記録に残る。しかし、そのあまたの実績の一方で、海外に進出する素材はおろか、 日本代表選手すらまともに育っていない。もちろん、全国から優れた人材が多数、集められる中で、その膨大な母集団の中から生き残り、 Jリーガーとなる選手もいる。ところが、その多くが期待したほど伸びずに埋もれていく。それは彼らが、肉体的にも精神的にもバーンアウトするからではないのか。」

国見が輩出した主なOBには大久保嘉人・高木琢也・永井秀樹・三浦淳宏・都築龍太などで、そのいずれもが日本代表経験者だ。
平山も既にカテゴリー枠を飛び越えた活躍を見せており、将来の日本代表入りが確実視されている。
永井氏の文章は事実に大きく反しており、これらの指摘はあまりにも的外れではないだろうか?

■国見は人間性を潰すのか?
「個性を伸ばすために大切なのは、練習試合で一度や二度失敗しても安易に叱らないことだ。 今の国見の若いコーチを見ていると選手が失敗するとすぐにかっとなって声を荒げてしまう傾向がある。そこで私はコーチにあまり叱らないように注意している。 『自分の高校時代と比べてみろ。今の選手達のほうがはるかに巧いし、もっと難しいことにチャレンジしているんだぞ』というと、コーチたちも納得してくれるようだ。 選手が自分で考えながらプレーする習慣を持ち始めたときに、指導者がガミガミ叱ったのでは選手は萎縮してしまう。 叱られて小さなミスを修正するメリットよりも、頭ごなしに叱られることで気持ちが萎縮してしまい、積極性を失ってしまうデメリットのほうがはるかに大きい。」

「今年はキャプテンの兵藤と、そして中村北斗がしっかりしているんですよ。彼はキャプテン以上くらいのリーダーシップがありますしね。 例えば寮でも50人近くおりますが、北斗が高校選抜のヨーロッパ遠征から帰ってきたときに、『寮長はだれですか?』と。 だれだれだと言うと、『なんで私にさせないんですか?』と。いや、おまえはプレーヤーで大変だからと言うと、『いや、できますよ』と。 自分で買って、寮も本当にきちっとまとめてくれますし、グラウンドでは兵藤がまとめてくれます。そして、それを平山が眺めているという感じですね(笑)。 ですから今年はチーム作りで、やっかいだなということは、このメンバーではありませんでしたね。 私は指導者として、『こんなに楽していいのかな?』というのが今年のチーム作りの思いですね。」

「顧問の教師は「人間教育」を強調している。しかし、合宿所に住まわせ、全員を同じ坊主頭にし、 一年中オフもなく試合行脚を続けるようなサッカーづけの毎日が、どうして人間教育といえようか。 私にとって、それはただ従順で、聞き分けのよい、画一化された、独創性の乏しい、大人にとって都合のいい人間を作り出す作業にしか見えない。
精神的バーンアウトには、心理的モチベーションがかれてしまう現象以外に、規制から解き放たれてコントロールを失い、 自己管理ができずに堕落していくという側面もある。 髪型、生活態度からトレーニングまで、全ての責任を自分が負う状況で自分を律することができるようにする指導こそ、海外での活躍につながる真の人間教育なのだ。」


プロとしての指導暦を持つ永井氏にとっては中村や兵藤は人間としての考える力がなく、精神的にも酷く劣っているようだ。
だがこれら永井氏の文章にはそれを読者に納得させるだけの説得力があるだろうか?
私にはないように感じる。

■個性を生かすサッカーと「形無し」の国見のスタイル
元日本代表としてアジアカップを初制覇したときのメンバーである高木卓也も国見のOBだが、彼を発掘したときの話は興味深い。

「国見高校でめぐり合ったとき、彼はサッカーは全くの初心者だったが、そのパワーとシュート力には非凡なものがあった。 今でもよく覚えているが、彼がシュート練習をしていると10本に1本の割合でGKがどんなに頑張っても止められないような強烈なシュートが決まったが、 残りの9本はどこに飛んでいくのかわからないような状況だった。ヘディングも似たようなもので、空中戦は常にDFに競り勝つのだが、 おでこに当たったり、頭の上のほうに当たったり、横に当たったりボールが飛んでいくコースがバラバラだった。 そこで私は連日、基本のシュート練習とヘディング練習を嫌というほど繰り返し行わせた。そうしてシュートがきちんと枠の中に飛ぶようになってから応用技術を少しずつ加えていった。 彼は高校3年の鳥取国体で長崎が準優勝したとき、大会の得点王になった。1つの武器を持つことで、高校の3年間だけでそこまで成長できる。」

無名に近い選手の個性を伸ばし、それを引き出すスタイルで勝ってきた国見には、例えば市立船橋のようなあるスタイルを伝統的に貫くと言うことは難しい。 公立高校であるがために学区内の生徒しか入学させることが出来ない国見高校は、毎年のように所属する選手が入れ替わる。そのため好みのタイプの選手を引き抜いてくるということが出来ず、現存の選手の個性を生かしているために、国見はこういうサッカーだという伝統的な型が無い。 ある意味では国見のスタイルは「形無しのサッカー」であるという言い方も出来る。 他の強豪のように有力選手を選り好んで獲得するわけではない国見は、その時期のよって在籍する選手の特性が違ってくるのだ。

この個性を生かすことで色変わりするサッカーについて、監督は次のように述べている。

「先入観で言われてしまうことは『国見はロングボールで勝つ』ということだ。 ロングボールを有効に使うのは選手の個性を見極め、それを最大限に生かせる戦術だと判断したからに過ぎない。 ドリブルが得意な選手がそろえば、間違いなくパスを中心にしたサッカーをすることになる。 平山に『ドリブルで相手をかわせ』と要求したら、平凡な選手になってしまう。平山の高さと強さを生かすためには、ボール前で競り合うことが一番だ。 相手が完全に引いて守って、ボール前にスペースがない場合は違う崩し方を考えなければならない。 そのときのために朝練習では狭いスペースの中でパスをつなぐトレーニングを行っている。

高校のチームは毎年選手が入れ替わる。
私はその選手とともに過ごせる3年間で出来る限りいい部分を引き出し、その年ごとに選手にあった戦術を考えるだけだ。」


選手の個性を生かすとは、相手にとって見れば露骨に嫌がられる。
国見のここ3年間は平山という超高校級の怪物がいたために、ロングボールがどうしても余計に多くなりがちだった部分もあるのだろう。 足の遅い選手を狙ってドリブルを仕掛け、背の低い選手と空中で競り合うのがもっともその個性を生かせるのが当たり前だが、 特に今回の平山の高さにはどのチームも困ったはずだ。何せ空中では平山以外ボールが触れないとなると、あまりにも能力差が出てしまう。 対策が執りようがない分だけ相手チームの愚痴が多くなるのも当然といえる。

時に国見は放り込みのサッカーと言われることもあるが、前線に正確なロングボールを供給する為に二人一組で長い距離のボールの蹴り合いの練習を地道に続ける国見のそれを 果たして安易に否定してよいものだろうか? それとも田中達也がドリブルで相手を抜くためにスペースを作ってあげるのはよくても、平山にヘディングを競り合わせるためにハイボールを上げるのはいけないのだろうか?

磐田に所属するオリンピック代表候補の前田の練習風景を見たことがあるが、 ミドルパスはすぐ隣で練習している選手達の方へ跳んでしまい、かなり酷い精度だったのを覚えている。 彼のボールテクニック、特に反転の技術は素晴らしいものがあるのだが、これは学生時代に狭いグラウンドを分割して使っていたために、 足元の細かいテクニックは伸びた一方、広いピッチを使うミドルキックや全体の視野などの訓練をつめなかったツケがまさに今にまわってきていると本人もインタビューで語っている。 FWの能力を生かすために正確なロングボールを蹴るのはドイツ人には許されても、前田のような細かい足元のつなぎを好む日本人には許されず、必ず足物で受けなければならないのだろうか?

何も国見の選手は上背を生かしたロングボールに競り合う選手ばかりではない。
かつて輩出した主なOBには大久保嘉人・永井秀樹・三浦淳宏など、独特で絶対の切れ味を持つドリブルをする選手が多い。 大久保はもとより、三浦も一対一で負けることはまずない。永井も怪我をしてから調子が戻っていないが、 全盛期には魔法のようなドリブルを連発し、将来を期待される存在だった。 こういったドリブルは決して人に教わり出来るものではない。自分で掴み取った技術と間合いとタイミングだからこそ三者三様のドリブルを見せているのだ。 もちろん平山のように高さや強さを最大限生かした、日本では珍しいプレースタイルの高木や船越などの選手も輩出している。

永井氏の指摘するように、国見は厳格なトレーニングで将来有望な選手の個性を潰しているのだろうか?
とてもそうは思えない。むしろ高校の3年間で日本人に足りないと言われる”個”を徹底的に伸ばしたからこそ、彼らの今があるのではないだろうか?

■マンマークのサッカーと個性の関係
「――ずっとマンツーマンマークを続けられていますが、これはやはりマンツーマンの方がいいということでしょうか?

私の場合は、プレーヤーの能力によりけりですね。
例えば今年の場合は、北斗と城後寿は意外と自由自在にやっている。今日は使っていましたけれど。 右のサイドの川口和輝も。ディフェンスの地崎竜彦と益永康介は、今年はずっとマンツーマンでやっています。戦術眼にちょっと乏しいんですね。 こういう選手には、ひとつの仕事をさせた方がいいというのが私の考えで。例えば中村北斗みたいなプレーヤーが2人いれば、いろいろなことができるんですが、 どうしても選手層から見ると……。

この日、もし1人けがをしたら、さっぱりダメなんですよ。
例えば国体では、兵藤が疲労骨折で出られなかった。全日本ユースでは、平山が出られなかった。そうするとチームの力としては、半減するんですね。 控えがいないというのが、今年の、そして最近のうちの悩みなんです。部員数は多いわけですが、本当に上の段階でいける選手は少ないですね」


これは今年の高校選手権の決勝を終えた時の監督のコメントだ。 個人的な感想だが、国見のDFにはさほどの才能は感じなかった。 そのかわりに一人一人の対人対応やチーム全体の意識は他の高校に比べ群を抜いて高かったと思う。 例えばこれが市立船橋高校になると全く異なっており、特にCBには増嶋など毎年、必ずと言っていいほど将来の日本代表を有望視されているDFがいる。

市船のディフェンスラインは布監督からの伝統でゾーン意識の高い戦術を採用している。
このゾーンというのはなかなか厄介で、現代サッカーではゾーンの意識はどのポジションでも必須なものではあるものの、 もしワンランク高いレベルでこれを発揮させようと思うと、どうしてもディフェンスセンスが要求される。 相手の動きを読む能力、試合の展開を予想しボールの飛んでくる地点を予測する能力、FWとの駆け引きの能力、 これらは経験である程度カバーできるものでもあるが、教えても出来るものではない。 あれほど守備力に優れる国見高校からJリーグに入るDFはほとんどいないが、 しかし同様に優れたディフェンスを行う市船からは毎年のように高いレベルのDFがJリーグ入りを果たしていることから、所属する選手のレベルを推し量ることが出来るというものだ。

印象的だったのは、天皇杯で市立船橋がJ王者の横浜を相手に増嶋を退場で失った時のシーンなどだ。
キャプテンとしてディフェンスラインを統率していた増嶋を失ったにもかかわらず、その後の延長戦まで含め市船の守備はそれまでと全く見劣りせずに機能していた。 これが国見の場合だと、監督が言うように選手層の薄さから1人欠けると本当にチーム力が一気に下がってしまう部分があるのだ。 国見のDFにはあまり器用なことは出来ないために、チームとしてはひとつの仕事に集中させないと選手が生きてこない。 市船のように4バックで行ったのではセンターが2枚だけになってしまうために、CBの総合的な能力が高くないと非常に難しい部分があるのだ。

国見がセンターを3枚にした3-5-2をとる理由は、やはり中央の局面でより有利な状況を取れるようにすることにある。 多くの日本人にとっては3-5-2はフラット3のイメージが強いが、通常はDFラインをツーストッパーとリベロの関係を貴重としたマンマークのサッカーを築くのがより一般的な用いられ方である。 実際はこちらの方が役割分担がハッキリしており戦術的にもやさしいのだ。 さらに言えば、モダンスタイルといわれる3-5-2を高いレベルで機能させようと思えば、どうしても攻守にわたってチームを引っ張ることが出来る優秀なWBが必要となる。 それを考えると、国見は先に挙げた朝練習のように鋭いドリブルができ、またそういった選手の対応できるだけの訓練を既に積んでいる守備に長けたWB、 例えば決勝でも活躍した川口和輝のような選手を生み出す素地があるのだ。 元来、3-5-2はこういった役割分担が行いやすいシステムでもあるので国見にとっては最適なシステムと言えるだろう。

■意識の低いジャーナリスト
国見のサッカーについて、後藤健生氏も幾つかの文章を寄せている。

「守っては、運動量を生かした早めのプレッシャーで相手のパス回しを狂わせ、徹底したマンマークで相手FWを封じ込める。 攻めては早めに相手陣内深くに蹴って、走って、クロスを入れて勝負だ。運動量を生かし、相手の根負けを誘ったあたりは2002年ワールドカップの韓国のようだし、 精度は多少低くなっても早めにスペースに蹴り込んで勝負するあたりはドイツのようだ。 あの丸刈りのせいでもあるのだが、何か型にはめた時代遅れの根性サッカーのようにも見える。

ああいうサッカーの中から大久保嘉人のような俊敏なFWを生み出したかと思ったら、今年は平山相太がブレークした。 高木琢也や船越憂蔵のような大型FWは伝統だが、そうかと思うと永井秀樹や三浦淳宏のようなテクニシャンも生まれている。 今年のチームにもすばらしいアシストをする兵藤慎剛やつぶし役でもあり、またパス出しもできる中村北斗がいた。 国見のサッカーは没個性的に見えて、個々の選手は十分に個性的でもある。国見のサッカーについては、ゆっくり考えてみなければならないことがたくさんある」


ここで紹介している国見高校の事例は、日本で最も有名なサッカー雑誌の1つであるサッカークリニックの巻頭特集から引用したものだ。 月一回発行の数万部の雑誌とはいえ、サッカー関係者にとって必読の一冊であることは間違いない。 先の永井氏の文章もそうだが、ここで紹介した後藤氏も含め、この特集記事に目を通したり、自ら取材した形跡はこの記事からは読み取れない。 少しでも国見の現状を知っているならば、こういったステレオタイプな見方を丸出しにした記事を書けないことは明らかだからだ。

全ての雑誌を隅々まで読めとは言わない。
だがこれは何度も言うように月刊誌の巻頭特集なのだ。 非常に残念ではあるが、これほどご高名のサッカージャーナリスト達でも、サッカークリニックすらまともに読んでいないのではないか?という疑いが出てくる。

後藤氏のいうように国見のサッカーについて、特にその指導方法については確かにゆっくり考える必要はあるだろう。
しかし、個性だ、3000試合だ、などと言って移動時間にも読み切れるような雑誌を読まずに、適当な先入観を含んだ記事を書く暇があるならば、まずは国見高校に取材に行かれてはどうだろうか?
それこそが本当のジャーナリズムというものだろう。

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